いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愛とは、すべてを超越する神の力

 

 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 ヨハネ21:15

 

 あなたはわたしを愛しますか。 ヨハネ21:16

 

 あなたはわたしを愛しますか。 ヨハネ21:17

 

 主イエス様が、シモン・ペテロにお求めになられたことは、ただ一つのことでした。

 

 どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。 ルカ10:42

 

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 マタイ22:36-38

 

 「神である主を愛すること」は、私たちクリスチャンにとって、第一の戒めであり、すべての原点です。あらゆることの動機です。
 主様が私たちに望んでおられることは、「あのこと」、「このこと」ではありません。
 私たちが、「神である主を愛すること」です。

 なぜ神である主は、私たちに、それほどまでに強く「神である主を愛すること」を望んでおられるのでしょうか。
 それは、神である主が、私たちを愛しておられるからです。

 もし私が誰かを愛するなら、私がその人に望むことは、「あのこと」、「このこと」ではありません。
 私を同じ強さで愛してもらうことです。
 その人が、私のために何かをしてくれるなら、嬉しいことですが、ただ単に義務的に、或いは、習慣的に行なっているのなら、それは淋しいことです。
 もしその人が何もしてくれなくても、私のそばにいるだけで嬉しいと言って、くつろいでいてくれるなら、それはどんなに大きな慰めであり、喜びでしょう。

 

 よみがえられた主イエス様は、シモン・ペテロに「愛」をお求めになりました。しかも、三度も繰り返して。

 もし妻が、「あなた。私のこと、愛してる?」と尋ねるなら、夫はどう感じるでしょうか。
 そんなこと、いちいち口に出さなくたって、わかっているだろうと、興ざめしないでしょうか。
 しかし妻は、夫の愛が良く伝わってこないから、確認するのではないでしょうか。
 この場合、夫は、どうすれば妻を愛していることを、しっかりと伝えられるでしょうか。
 「もちろん、愛しているよ。」と口先で答えれば、伝わるでしょうか。

 夫が、「もちろん、愛しているよ。」と答えた後で、再び、妻から「私のこと、本当に愛してる?」と尋ねられたなら、夫の心中はいかばかりでしょう。
 しかも三度も、確認されたとしたら、大半の方は、怒り出すのではないでしょうか。
 しかし、察しの良い夫ならば、「さては、何かおねだりしたいことがあるのだな。」と、気付くでしょう。
 「本当に愛しているなら、その証拠を見せて。」というわけです。
 確かに愛は、行ないによって、具体的に表現されます。
 愛の強さは、犠牲の大きさによって、明らかにされます。

 

 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
 こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」  ヨハネ21:17-19

 

 三度も、シモン・ペテロに愛を確認された主イエス様は、その「愛の証し」をお求めになりました。
 それは、「わたしの羊を飼いなさい。」また「わたしに従いなさい。」ということでした。
 主イエス様は私たちに、時に応じて、「あのこと」、「このこと」をも、確かにお求めになりますが、それらはすべて「愛の証し」として、求めておられるのです。
 「飼えばいいんでしょ。」とか、「はいはい、従えばいいんでしょ。」ということではありません。
 「愛の表現」としての行ないならば、愛する方に、「私の愛の真実」が確かに伝わるようにと、喜んでするのではないでしょうか。

 

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。  ヨハネ13:34

 

 私たちを愛し、私たちの愛をお求めになる主イエス様は、「新しい戒め」をお与えになりました。
 それは、「あのこと」、「このこと」ではありませんでした。
 「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という最高の律法でした。
 これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という旧約の戒めを、はるかに上回る驚異的な戒めでした。

 旧約の戒めは、「自分自身を愛する」レベル=「隣人を愛する」レベルですが、新しい戒めでは、「主イエス様が私たちを愛された」レベルで、隣人を愛しなさいと言われているのです。
 主イエス様は、ご自分を愛される以上に、私たちを愛してくださいました。
 ご自分のいのちをお捨てになってまで、私たちを愛してくださいました。
 主イエス様が私たちに求めておられるのは、自分のいのちを捨てるまで、隣人を愛するということです。

 

 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。 ヨハネ14:15

 

 

 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。  ヨハネ14:21

 

 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。 ヨハネ14:24

 

 主イエス様を愛する人は、この「新しい戒め」を守るはずです。
 主イエス様の最高の戒めを守らない人は、主イエス様を愛さない人です。
 この戒めに、例外規定はありません。
 もし、○○なら、愛さなくても良いとか、××のときは、愛するに及ばず、という免責条件はありません。

 

 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。 ローマ15:1-3

 

 私たちは、「キリストが私たちを愛してくださったように」、キリストが目に見えるお姿でここにおられたなら、どのように隣人を愛されたかを思い巡らせながら、キリストのみこころを尋ね求め続けることができれば幸いです。
 これは、私たちにとって無理難題、負い切れないくびきなのでしょうか。

 

 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 Ⅰヨハネ5:3-4

 

 私たちクリスチャンは、神によって新生した、父なる神様の子どもです。
 私たちには、「新しいいのち」が与えられました。
 確かに、自己中心の塊である「古いいのち」にとって、隣人を愛することは重荷です。
 しかし、「新しいいのち」は、「主イエス様のいのち」です。
 「主イエス様のいのち」の中には、「憎しみ」がありません。
 「主イエス様のいのち」は、愛することが自然ないのちです。愛さないことが不可能ないのちなのです。
 この素晴らしい「主イエス様のいのち」が、今や、私たちのうちにも分け与えられ、豊かに育まれて、自分のいのち以上に隣人を愛することが自然ないのちとして、成長していくのです。
 なんという幸いでしょうか。

 

 たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 Ⅰコリント13:2

 

 「信仰」も、「愛の証し」です。
 「信仰」とは、ただ単に何かを信じることではありません。

 「信仰」とは、「この水には、毒物が入っていないと堅く信じよう。」と自分自身に言い聞かせて、「その水」を信じ、「私の熱心」、「私の決心」ゆえに、思いきって飲むことではありません。
 このように、愛をまったく伴わずに、何かを信じることは、可能です。
 現に、この世の人々は、何の愛も伴わずに、進化論を堅く信じているではありませんか。
 これは、「信仰」というよりも、むしろ「信念」と呼ぶ方がふさわしいでしょう。「思う一念、岩をも通す。」の類です。

 聖書の語る「信仰」とは、最高の「愛の表現」です。
 「信仰」とは、「この水を汲んでくださったお方は、愛なるお方であり、真実なお方である」と、心から信頼し、安心して、その水を飲むことです。それは、汲んでくださったお方への「愛の証し」となります。

 ですから、「完全な信仰」と呼べるほどの堅い信仰であっても、それが愛に基づかないなら、何の値打もないのです。
 信仰の強度ではなく、愛の強度が問題なのです。

 

 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。 ヘブル11:11

 

 サラも、約束そのものを信じたというよりも、「約束してくださった方」を「真実な方」と考えて、そのお方の愛に対する、愛の応答として、そのお方を信頼しました。

 

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 ガラテヤ2:20

 

 パウロは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」を心から愛していたので、御子を信じました。
 御子の十字架と、よみがえりのいのちを信じ、よみがえりのいのちの実際を豊かに享受しました。

 

 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。 ガラテヤ5:6

 

 「行ない」そのものは、大事なことではありません。
 「行ない」は、キリストに対する「愛の証し」であるとき、私たちの愛をお求めになる神の喜びとなります。
 「信仰」そのものも、大事なことではありません。
 「信仰」も、キリストに対する「愛の証し」であるとき、私たちの愛をお求めになる神の喜びとなります。
 「愛によって働く信仰」だけが、大事なのです。

 

 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。 Ⅰヨハネ4:18

 

 「恐れを乗り越えさせる力」も、愛による信頼です。
 その人が、恐れを締め出しているなら、それはまったき信頼、「愛の証し」となります。

 キリストは、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方(エペソ3:20)」です。
 神から出ている「まことの愛」、「キリストの愛」とは、すべてを乗り越えて行く力です。それは何か、「超越したもの」です。
 それは、あらゆる障壁を、「打ち壊す」この世の力ではなく、「難なく飛び越えて行く」第三の力、天上の力、神の力です。
 「キリストの愛」とは、歯を食いしばって負うべき重荷ではなく、この自由で身軽な跳躍力です。

 

 主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。
 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。 Ⅱサムエル22:29-30

 

 主よ。どうか私たちが、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように(エペソ3:19)」。
 私たちの心に注がれているキリストの愛をさらに深く知り、キリストの愛において成長させられ、私たちを、キリストのいのち、キリストの愛を豊かに分け与える者たちとしてください。
 私たちを、キリストの愛によって、あらゆる困難を飛び越えて、あなたのもとへと、喜んで従って行く者たちとしてください。

 

 愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。
 私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。
 ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。私の愛する方は、私に語りかけて言われます。
 「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
 
ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。
 わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。 雅歌2:8-13