いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

恵みを受ける備えをせよ

 

 東北関東大震災の余震は、今も絶え間なく続いています。
 埼玉の親類は、揺れていないときでも揺れているような感覚が抜けないと話していました。
 東京の友人からは、こんなメールが届きました。
 「非日常が、日常になっています。」
 
 この大きな災害を通して、これまで「当たり前」と思っていた「ごく小さな日常のこと」は、すべて「神の恵み」によって保たれていたことに、改めて目を開かれて、感謝の足りない自分を、つくづく悔い改めさせられています。

 

 神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。
 神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。
 神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。神がしかると、天の柱は震い、恐れる。 ヨブ26:7-11

 

 考えてみれば、何の支えもなく宇宙に浮かび、高速回転を続けている、丸い地球の上に、私たちが今日まで、しっかりと立つことができていることは、実に奇跡的なことではないでしょうか。
 私たちを取り巻いている環境は、まことに「神の恵み」に満ち溢れているのです。
 
 いったい私たち人間には、この偉大なる創造主である「神の恵み」を理解する力が、あるのでしょうか。
 まさに、「人知を遥かに超えたキリストの愛(エペソ3:19)」です。

 今、主様は私に、「あなたがたは、恵みを受ける備えをせよ。」と語っておられます。
 「恵みを受ける備え」とは、いったい何でしょうか。
 
 
 「戦いの備えをせよ。」と言われるのなら、理解できます。
 「主よ。私は、愛するあなたのお召しを、今や遅しと待っていました。あなたのためなら、どこまででも戦います。どうぞ私に任せてください。」と、私は腕まくりして応えたでしょう。

 

 あなたのためにはいのちも捨てます。 ヨハネ13:37

 

 私は、これまで溢れるばかりの恵みを注いできてくださった主様に、何としてもお応えしたいと切に願っています。
 それゆえ私は、毎月、福音小冊子を、遠方に住む数十名の友人・知人に手紙を添えてお送りし、市内に住む方々には、できる限り訪問して手渡ししてきました。
 しかし最近になって、「強要しないで」と、陰に陽に拒まれるようになり、その道が塞がれ始めました。

 
 あるクリスチャンは、こんなことを語ってくださいました。
 クリスチャンの働きには、「主のわざ」と、「主のための(肉の)わざ」がある。自分では「主のわざ」だと思っていても、自分勝手に「主のための(肉の)わざ」を行なっていないかどうか、よく吟味しなければならない。
 
 もっともな、お言葉だと思います。
 しかし、合理主義者の私には、残念ながら、伝道したいなどという肉の思いはないのです。
 伝道すれば友人・知人に嫌われるであろうことは、充分に推測できます。
 短期的に見れば、労多くして、喜ばれる確率の低い働きですから、主様のご命令とはいえ、避けて通れるものならば、避けて通りたいのが本音です。

 

 私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。 マタイ8:9

 

 けれども私は、主様が「行け」とおっしゃるのであれば、ただちに主様に従いたいと願っています。
 私に主様の御声が、正しく聞こえているかどうかはわかりません。
 しかし私は、主様の御声だと感じれば、そのお宅に訪問します。
 その結果は、留守の場合もあれば、ひどい剣幕で追い返されることもあります。
 
 けれども、たとえそうであっても、私は「やはり主様の御声ではなかったのだ…。」とは思わないのです。
 主様が私に求めておられることは、「忠実さ」だけであり、「結果を出すこと」ではないからです。
 どのように散々な結果に終わったとしても、「自分に聞こえている主様の御声」に従ったのであれば、自分の祈りの足りなさ、働きのつたなさなどを、主様にお詫びしつつも、私には平安が与えられます。
 もし、「自分に聞こえている主様の御声」に従っていなければ、私は良心の責め苦に会います。不忠実なしもべの私には、もはや再びお召しがないかも知れないとさえ恐れます。

 

 よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。 マタイ25:21

 

 たとえ愚かな私が、主様の御声を勘違いしていたとしても、心をご覧になる、あわれみ深い主様は、私が持てる誠実と最善を尽くしたのであれば、その幼さを苦笑されることがあったとしても、お責めにはならないでしょう。

 
 愚かな私には、どんなに吟味したところで、それが「主のわざ」なのか、「主のための(肉の)わざ」なのかは、わかりません。
 たとえ私が、吟味した挙句に、「うん。確かに、これは主のわざだ。」と確信したところで、それがいったい何の役に立つのでしょう。
 誰かに向って、自己弁護するのに役立つでしょうか。
 私は「信仰評論家」には、決してなりたくはありません。
 私は、「服を汚さない外野のギャラリー」ではなく、「ピッチに立って泥まみれになって戦うプレイヤー」でありたいのです。

 
 しかし、そう願っている私の道が、次々と塞がれ始めたとき、落ち込むしもべに主様が語られたことは、「あなたは恵みを受ける備えをせよ。」だったのです。
 
 ストイックな私は、主様のためなら、あらゆる犠牲を払いたいと願っています。
 しかし現実の私は、「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ26:40-41)」 と言われてしまうような毎日です。
 けれども主様は、そんな「ひ弱な私」をお責めになることはなく、かえって「私を全焼のいけにえにしてください、と熱く願う私」を、いつも見事に退けられます。

 

 聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。 詩篇50:7-8

 

 私は、「心は燃えていても、肉体は弱い」自分を見て、自責の念に駆られます。
 しかし主様は、「心は燃えていても、肉体は弱い私」を、お責めにはなりません。
 結局、「自責の念」とは、私のプライドに過ぎないものです。
 「私にはできるはずだ」と思い上がっているので、「できなかった自分」を責めるわけです。
 
 しかし主様は私に、「自分が無力な者であることを心底、悟ること」を望んでおられるだけで、有能な者になることなど求めておられないのです。
 完全な「全焼のいけにえ」は、キリスト・イエスのみであり、「欠陥だらけの全焼のいけにえ」など不敬千万であると、私は払い除けられるのです。

 

 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 詩編51:16-17

 

 「金持ち」、「裕福な者」、「富んでいる(黙示録3:17)」者は、いつも「神様、私はこれも、ささげます。あれも、ささげます。」と忙しく、ささげることばかり考えています。

 

 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 ルカ18:24-25

 

 私は本当に、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること(黙示録3:17)」を、いつまでたっても悟ることがありません。
 無意識のうちに「自分は富んでいる」と思っている私は、ストイックに十字架を担うことばかり考えています。

 

 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。
 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 黙示録2:24-25

 

 そんな私に、いつも主様が言われることは、「あなたがたに、ほかの重荷を負わせない」ということです。

 

 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
 
 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。 ミカ6:6-6:8

 

 この悩む者に、主様が告げられたことは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、「へりくだって」神とともに歩むことでした。
 それは、「裕福な者」として、公義を行ない、誠実を愛し、神とともに歩むことではありませんでした。
 
 私たちは、「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」を、真に悟り、心から認め、心底から同意しなければなりません。
 「金持ち」は、決して、「へりくだる」ことができません。
 「金持ち」は、誰からも、何も、いただく必要がなく、受け取ることができません。
 「貧しい者」だけが、受け取ることができるのです。

 

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 マタイ5:3

 

 「心の貧しい者」とは、己の無力さを知り、謙遜に神に拠り頼む者、へりくだった者を、意味しているようです。
 天の御国は、イエス・キリストの他は、真に何も持たない貧乏人のものなのです。

 

 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。 ヤコブ4:6

 

 もし私たちの目の前に、「金持ち」と「今日食べるパンにさえ、こと欠く貧乏人」がいたとしたら、どちらに先に手を差し伸べるでしょうか。
 あわれみ深い人ならば、真っ先に「貧乏人」に、温かい愛の手を差し伸べるのではないでしょうか。

 

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 Ⅰペテロ5:5

 

 溢れるばかりの恵みを私たちに注ぎたい神様は、私たちが貧乏人であることに同意し、さらに深くへりくだらなければ、充分に注ぐことがお出来にならないのです。
 「恵みを受ける備え」とは、私たちが真に貧しく、さらに低く、もっと小さくなることなのだと、悟りました。
 
 そして、私の道が塞がれた意味は、それが「主のわざ」か「主のためのわざ」かということに焦点があるのではなく、私が「金持ちとして働いているか」、それとも「貧乏人として働いているか」の問題であると気付かされました。

 
 「金持ちの私」は、いつも「良いもの」を、一方的に施そうとしています。確かに私たちは、「最も良いもの」である神の福音を携えています。
 しかし「金持ちの私」は、「同時に、主様の御手を通して、相手からも何らかの益を受け取ることができる」などとは夢にも思わず、受け取ろうともしていないのです。
 それは、実に「上から目線」の傲慢な態度でした。
 
 しかし私たちが、真に「貧乏人」であることを悟り、「貧乏人にふさわしい謙遜さ」を身につけるならば、主様の御手を通して、未信者からでさえ、何がしかのことを学ぶことができ、すべてのことから恵みをいただくでしょう。

 
 ああ主よ。私たちが、本当に「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」を、真に悟り、腹の底からアーメンと答えることができるまでに、私たちの心をきよめてください。
 あなたの恵みを、あなたが施したいと思われるままに、溢れるばかりに自由に降り注ぐことができるほどに、私たちを砕いて、小さくしてください。

 

 子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。 ヨハネ5:19

 

 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ヨハネ5:30

 

 主イエス様は、繰り返し、「自分からは何事も行なうことができません。」と話されました。
 罪ある人間でさえ、大抵のことは自分から行なうことができます。まして主イエス様は神の御子ですから、「能力」としては、ありとあらゆることを行なうことがおできになられたはずです。
 ですから、ここで主イエス様が、「自分からは何事も行なうことができません。」と言われたのは、能力がなかったからではなく、「無力であることを選ばれた」、「進んで貧乏人の立場を取られた」ということではないでしょうか。

 
 なぜ主イエス様は、「せっかく与えられている能力を出し惜しむ」ようなことを言われたのでしょうか。
 それは、「父なる神様だけが最善のことをおできになる」ことを、人の姿を取られた主イエス様が、真に理解しておられたからではないでしょうか。
 人としての主イエス様が、最善をなされる父なる神様のみこころを無視して、何事かを行なうならば、それは「無益」を超えて、「有害」にすらなりかねません。
 御子イエス様は、ご自分に与えられている能力の重さを、充分に理解していたがゆえに、いっそう慎重に、ご自分の力を自制されたのではないでしょうか。

 

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
 すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 Ⅱコリント8:9

 

 こうして私たちの主イエス様は御自ら、すべての点で貧しさを身にまとわれました。
 それゆえ、父なる神様は、主イエス様に、溢れるばかりの恵みを注ぐことがおできになりました。
 しかし主イエス様は、神の恵みによって「自らが裕福な者となること」を拒まれ、お受けになられたすべての恵みを、私たちのために使い果たされ、御自身は地上では最期まで「貧しい者」として歩み通されました。
 父なる神様が、どこまで恵みを注いでも、主イエス様は決して、「裕福な者」にならなかったので、父なる神様の御目には、「貧しい御子」がより一層愛おしく、さらに豊かな恵みを注ぎたいと切に思われ、また注ぐことが可能となったのではないでしょうか。
 御子イエス様のお選びになられた「貧しさ」こそ、溢れるばかりの祝福の道です。

 

 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。 ローマ1:14-15

 

 パウロは、「私は負債を負っている」と言いました。
 私は、パウロがどんな種類の負債を負っていたのだろうと、ずっと悩んできました。
 そして私は今、パウロは「恵みという負債」を負っていたのではないかと思っています。

 

 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 ローマ11:5-7

 

 「恵み」とは、受け取るに値しない者に、何のいわれもなく一方的に与えられる恩寵、プレゼントです。
 いわば、「棚からぼた餅」です。
 確かに、「恵み」とは、ゆえなく与えられるものです。
 しかし、「与えられた恵み」は、クリスチャンにとっては「前払いの借金(負債)」とは言えないでしょうか。

 

 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。マタイ25:14-15

 

 この「タラント」は、「神の恵み」です。
 それは、基本的には私たち側の依頼に基づかない、神様から一方的に与えられた「借金」です。
 「借金」ですから、返済しなければなりません。
 タラントを預かった彼らは、商売をして、返済しました。

 

 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」マタイ25:20

 

 別の言い方をすれば、「恵み」とは、私たちの食べ物「パン」に相当します。
 私たちは「神の恵み」によって、先に「パン」をたらふく食べることができます。
 「恵みのパン」を食べた者は、当然、力がついて元気になります。それで、「恵みのパン」を受けなかった場合よりも、たくさん働くことが可能になります。
 食べた「パン」は、「借金」です。食べた以上は、たくさん働かなければなりません。
 神様は、「お選びになった人」に、たくさん働いてもらうために、前払いで「恵みのパン」を、お与えになったのですから。

 

 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。Ⅰコリント15:9-10

 

 パウロは、自分が「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者」であることに、心底から同意していました。
 それゆえパウロは、真に謙遜な人になりました。
 ですから神様は、へりくだったパウロに、溢れるばかりの恵みを注ぐことが可能になりました。
 
 そして、神様の確かな御目によって、選ばれたパウロは、豊かな「神の恵み」にあずかりました。
 「返さなければならない負債」でもある「神の恵みのパン」をたくさん食べたパウロは、「ほかのすべての使徒たちよりも多く働く」ことが可能になりました。
 ですから、多く働いたことは、パウロの誇りにはなりませんでした。
 パウロが働くことができたのは、神様から「恵みのパン」をいただいたからです。
 それゆえパウロは、言いました。「それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

 

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。  ヨハネ1:14

 

 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。  ヨハネ1:16-17

 

 私たちは、「恵みを受ける備え」をしましょう。
 そして私たちに、溢れるばかりの恵みを、注ぎたくて注ぎたくてたまらないで待ち構えておられる神様の御前に、ひれ伏し、へりくだって、存分に「神の恵み」を注いでいただきましょう。
 そして、神の恵みを豊かに注がれた者たちは、走るべき行程を一心に走りましょう。
 ご再臨の日は近いのです。

 

 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
 
 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
 
 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
 
 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。 Ⅱペテロ3:8-15