いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「心を聖められる」ことを追い求める

 

 

 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。 Ⅰテサロニケ4:3



 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。 Ⅰテサロニケ4:7

 

 父なる神様は、私たちクリスチャンが聖い者と「なること」を願っておられます。
 
 今、主イエス・キリストの贖いを信じている私たちは、神の御目には、「義」と認められています。聖書には、「信仰によって、義と認められる」という主旨のみことばは、数多くあります。
 しかし、「信仰によって、聖と認められる」という主旨のみことばは、見当たりません。

 

 人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。 使徒15:8-9

 

 確かに父なる神様は、私たちに聖霊をお与えくださり、「私たちの心を、信仰によって、きよめて」くださいました。
 「信仰による義」は、一度で完全であり、失われることがありませんが、私たちの心が「信仰によってきよめられた」のは、「聖さの出発点」に立ったに過ぎません。
 私たちの心は、相変わらず、この世の価値観によって、汚染されているのです。
 
 神の御目に「義と認められたクリスチャン」は、救われてから、聖きに「進んで行かなければならない」のです。
 キリストの贖いを信じない罪人は、罪を示される聖霊の働きを拒み、自分の罪を認めることがないので、どんなに努力しても、聖くなる可能性がありません。
 しかし、かつては聖くなりたいという願いすら持ち得なかった私たちは、今や聖い御霊をいただいたので、「聖くなる歩み」をようやく「始められる」のです。

 

 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。 Ⅱコリント6:17-7:1

 

 「神の子ども」とされた私たちは、「いっさいの霊肉の汚れ」から自分をきよめ、聖きを全うしていかなければなりません。
 悪魔、悪霊の別名は、「汚れた霊」です。
 悪魔は、私たちから「救い」を奪うことは許されていませんが、「汚す」ことは許されています。
 私たちは、「汚れ」から離れ、絶えず「自分自身を聖め分かつ」覚悟が必要です。
 
 しかし、知恵の足りない私たちは、しばしば軽率にも過ちを犯し、悪い者に欺かれて、汚されます。
 しかし、「御子イエス様の聖い御血」は、そんな幼い神の子どもたちのために、確かな聖めの働きをしてくださいます。

 

 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 Ⅰヨハネ1:7-9

 

 私たちは、聖霊の働きによって、自分のうちに罪を見出したなら、ただちに神の御前に出て、自分の罪を言い表わし、「御子イエス様の御血」による、きよめにあずかることが許されています。
 この「御子のきよい御血」をご覧になる父なる神様は、告白された罪を赦すばかりではなく、「すべての悪」から私たちをきよめてくださいます。

 

 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。 ヘブル9:22

 

 さて、「すべての悪からきよめられた」私は、これでようやく「完全に聖い者」になったのでしょうか。

 

 あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 ローマ6:19

 

 「神のみこころ」は、神の子どもたちが、聖潔に「進むこと」です。
 血肉のからだを持つ私たちは、「完全に聖くなること」はできませんが、「さらに聖くなること」を追い求めなければなりません。
 なぜ、そこまで聖くなり続けなければならないのでしょうか。

 

 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 Ⅰペテロ1:14-16

 

 それは、私たちを召してくださったお方が、聖であるからです。
 父なる神様によって生まれた神の子どもたちは、当然、父なる神様に、似たものであるべきです。
 「…まったく。親の顔が見てみたい…。」などと、呆れ果てられるような者であっては、父なる神様のご性質をお伝えすることはできません。

 

 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 ヘブル12:14

 

 「聖められることを追い求める」のは、また、私たち自身が、父なる神様をはっきりと見ることができるようになるためでもあります。
 聖くなければ、だれも主を見ることができません。
 「だれも」とは、私自身も、私の周りにいるすべての人も、含むのではないでしょうか。
 もし私が聖くなければ、私自身はおろか、私の周りにいるすべての人が、「神を見る」機会を逸してしまうという意味ではないでしょうか。
 
 それではいったい、「私たちの何が」、聖められていくべきなのでしょう。

 

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。 マタイ23:25-28

 

 私たちは、外側にある「血肉のからだ」を、きよく保つことも必要です。
 しかし、主イエス様は言われました。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」と。

 

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 マタイ5:8

 

 父なる神様が求めておられるのは、「心のきよい者」です。
 内側にある「私たちの心」が、ますます聖められていかなければなりません。「そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。(ルカ11:41)
 
 それでは、「私たちの心」は、「何によって」聖められるのでしょう。

 

 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 ヨハネ15:3

 

 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。 ヨハネ17:17

 

 「私たちの心」は、最初、「神のみことば」によって、聖められました。
 かつて、「私たちの心」は邪悪でした。「私たちの考える罪の基準」は、自分に甘く、自分に都合の良い、極めていい加減なものでしたが、「聖書のみことば」によって、「神のみこころ」を教えられ、邪悪な良心は、きよめられました。

 

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 ヘブル4:12

 

 悲しむべきことに、「私たちの良心」は、未信者時代に、この世の価値観によって深く汚染されおり、信者となってからも絶えず、この世の流れから影響を受けています。
 ですから私たちは、絶えず、聖書に親しみ、「神のみことば」と「聖霊の働き」によって、「私たちの良心」を、より深く探っていただき、聖められることを追い求めましょう。
 
 喜ぶべきことに、私たちには、さらにまた、「邪悪な良心」を聖めてくださる、すばらしい「キリストの御血」があります。

 

 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
 
 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
 
 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。 ヘブル9:8-14

 

 旧約の幕屋でささげられた「動物の血」は、「肉体」をきよいものにしただけで、「礼拝する者の良心を完全にすること」はできませんでした。
 そこでキリストは、「傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血」によって、「私たちの良心をきよめて」くださいました。

 

 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 ヘブル10:22

 

 弱く、愚かで、汚されやすい私たちは、恐れることなく、はばかることなく、あわれみ深い主イエス様におすがりし、絶えず、「弱い良心(Ⅰコリント8:7)」、「邪悪な良心」を、「キリストの御血」によって、聖めていただきましょう。

 

 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。 Ⅰテモテ1:5

 

 パウロがテモテに与えた命令の目標は、「きよい心」と「正しい良心」と「偽りのない信仰」とから、「出て来る愛」にありました。
 
 私たちは、心を聖くされるなら、神を見ることができます。
 内側にある心を聖くされるなら、いっさいが私たちにとってきよいものとなります。
 「聖められた心」からは、やがて「神の愛」が溢れるばかりに出て来るようになるでしょう。

 

 私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。 使徒24:16

 

 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。
 それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。 Ⅰテモテ1:18-19

 

 私たちは、最善を尽くして、「みことば」と、「聖霊の働き」と、「キリストの御血」によって、「正しい良心」を保ち、さらに、ますます、私たちの主キリストの聖さにあずかりましょう。

 

 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
 主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。 Ⅰテサロニケ5:23-24