いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

信仰とは、霊の中で「神の完成図」を受け取ること

 

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。創世記1:26-27

 

 私たち人間は、神によって、「われわれに似るように」、「神のかたち」に造られました。
 「われわれ」とは、三位一体の神ご自身、すなわち父なる神、御子イエス・キリスト聖霊です。
 このことからも明らかなように、「神のかたち」とは、「肉の目によって確認されるかたち」ではなく、「霊のかたち」です。
 
 神は、「人の霊のかたち」が、「神に似るように」なることを意図してくださいました。
 そして神は、「人の霊」のすみかとして、「血肉のからだ」を造ってくださいました。

 

 天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
 
 血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
 
 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。
 血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。Ⅰコリント15:40-49

 

 私たちクリスチャンは、肉の目で見ることのできる「血肉のからだ」、「地上のからだ」を持つと同時に、「天上のからだ」、「御霊に属するからだ」、すなわち肉の目では見ることのできない「霊のからだ」をも持つのです。
 
 聖書には、様々な種類の「からだ」が登場しますが、それが「血肉のからだ」を指しているのか、「霊のからだ」を指しているのか、充分に吟味する必要があります。
 土で造られた「血肉のからだ」を示すことばとしては、「外見上のからだ(ローマ2:28)」、「自分のからだ(ローマ4:19)」、「罪のからだ(ローマ6:6)」、「死ぬべきからだ(ローマ6:12)」、「卑しいからだ(ピリピ3:21)」などがあります。

 同じように、「いのち」ということばも、「血肉のいのち」について語っているのか、「霊のいのち」のことなのか、注意することが必要です。
 
 私たちは、ややもすると「血肉のからだのこと」に注意・関心が奪われがちです。
 しかし、私たちの本質は、必ず滅びる「血肉のからだ」にはなく、永遠に続く「霊・たましい」にあります。
 私たちは、「肉の目」によって、「血肉のからだ」を見るのではなく、「霊の目」によって、「霊・たましいのからだ」を見なければなりません。
 「血肉のからだ」は、決して神の国を相続することができない、空しいものです。
 私たちは焦点を見誤って、地上で過ごすわずかな時間と、尊い神の賜物とを、無駄に費やしてしまうことのないようにしましょう。

 

 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:31-33

 

 「血肉のからだ」のことは、神様が心配してくださいます。
 私たちは、「霊・たましい」のことを、本当に心配しなければなりません。
 「霊・たましいのからだ」が、イエス・キリストの尊い御血によって洗いきよめられ、信仰による神の義を相続し、神の国に入れられることを、私たちはまず第一に求めなければなりません。
 
 神様は、「血肉のからだ」ではなく、私たちの「霊・たましいのからだ」をこそ、「人のからだ」としてご覧になっておられます。

 

 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」Ⅰサムエル16:7

 

 神様は、私たちの本質である「霊・たましいのからだ」である心を、常にご覧になっておられます。
 「血肉のからだ」のことは、「うわべのこと」に過ぎません。

 

 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」ヨハネ7:24

 

 あなたがたは、うわべのことだけを見ています。Ⅱコリント10:7

 

 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。
 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。
 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。コロサイ3:22-24

 

 パウロは、私たちが焦点を見誤ることのないように、書簡の中で繰り返し、「うわべのこと」、すなわち「血肉のからだのこと」と、「本質である霊・たましいのこと」を明確に判別し、見分けることを教えています。
 パウロは、この二つの「からだ」を見分けることを教えるために、「古い人」と「新しい人」、また「外なる人」と「内なる人」という表現を用いています。

 

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。ローマ6:6

 

 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。エペソ4:22-24

 

 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。コロサイ3:9-10

 

 「古い人」は、「血肉のからだ」を中心とした生活を送っていました。
 「古い人」の「霊」は死んでおり、「霊の目」で本質を見ることができず、うわべのことしか見ることができません。
 「古い人」は、「血肉のからだを養う」ために、熱心に多くの活動をしていました。
 
 しかし、「新しい人」は、「霊」を中心とした生活を送ります。
 「血肉のからだ」は、十字架に付けられ、新しい「霊のからだの目」で「霊・たましい」のことを見分けます。
 「新しい人」、「霊を中心とした人」の関心は、もっぱら「霊のからだを養う」ことに焦点が絞られるため、「血肉のからだを養う」必要においても、その活動が、質・量ともに適正化されます。

 

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。Ⅱコリント4:16

 

 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。エペソ3:16

 

 「外なる人」は、「うわべにある人」です。
 私たちは、罪の中を歩んでいた時代も、神によって新生した後も、同じ「血肉のからだ」を持ち続けるため、「外なる人」には、ほとんど変化は見られません。
 しかし、「外なる人」は、必ず滅びる土の器に過ぎません。「外なる人」も、「古い人」と同じように、霊的な理解では、十字架によって死んだ者です。
 「外なる人」は、決して神の国に入ることはありません。

 

 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。マタイ5:20

 

 「律法学者やパリサイ人の義」とは、「外なる人」の義でしょう。
 私たちの義が、「内なる人」の義でないなら、私たちはこの地上にあって、決して天の御国の実際に入ることはありません。

 

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。マタイ5:29-30

 

 「外なる人」は、たとえガンに侵されようと、一部分を失おうと、「内なる人」すなわち、私たちの新しい「霊・たましいのからだ」には、何の打撃も及ぼすことはできません。
 ハレルヤ。私たちは、「血肉のからだ」を持っていても、私たちの本質は「血肉のからだ」にあるのではなく、新しい「霊・たましい」にあるのです。
 悪魔が触れることができる領域は、「血肉のからだ」だけであり、新しい「霊・たましいのからだ」は、キリストのうちに隠され、神によって完全に守られています。

 

 今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:15-18

 

 私たちの「血肉のからだ」は、霊的な理解では、すでに十字架によって死んでいますが、もし信仰によって、死んだことを受け入れていないなら、その朽ちた「血肉のからだ」は、「心のおおい」となって残り続けます。
 もし「心のおおい」が取りのけられていないなら、その人の「霊の目」は、霧がかかったように、ぼんやりとしたものを見ることしかできず、神のみこころを明らかに知ることが困難になってしまいます。
 
 神は霊です。そして、私たちもまた、神の御霊とひとつにされた新しい霊です。
 今すでに、私たちは、死んだ「血肉のからだ」を持ちつつも、生きた「霊のからだ」として、「霊の世界」に生きています。

 

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ローマ6:11

 

 私たちが優先して祈り求めるべきものは、「血肉を養うもの」ではなく、「霊を養うもの」です。
 旧約の時代から一貫して神は、「霊のもの」を、「霊のからだ」に対してお与えになっています。

 

 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。
 その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。創世記11:32-12:4

 

 神がアブラムに、最初に語りかけられたとき、神はアブラムを「大いなる国民とし、祝福し、その名を大いなるものとする」と、約束されました。
 「霊の世界」では、神が語られたことは、語られた時点で、すでに実現しています。
 「霊の世界」で実現したのであれば、それはすでに完了したのです。
 「血肉の世界」で実現されることは、追認に過ぎません。
 
 アブラムが、「約束の子の血肉のからだ」を、まだ「血肉の目」によって見ていなくても、「血肉の手」によって抱いておらずとも、本質的には、さしたる意味はありません。
 「霊の世界」で、完成したことは、すでに成就したのです。

 

 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。マタイ5:27-28

 

 さて、主日礼拝に、そそっかしい私は、献金を入れたポーチを、うっかり自宅に置いて来てしまいました。
 私はその場で慌てて自分の財布から、とりあえずの献金をすることは断念し、「すでに聖別されているもの」を、翌週まとめて献金しようと思いました。
 
 けれども、献金箱が回って来て、私が献金しないのを兄弟姉妹が見たら、疑いの目で見られるのではないだろうか…という思いが、一瞬、脳裏をかすめました。
 
 しかし神様は、私の「血肉のからだ」をご覧になるのではなく、「霊・たましい」をご覧になるのです。「霊の世界」では、私はすでに献金を終えたことを神様はご存じでいらっしゃいます。
 そう気付くと、たとえ兄弟姉妹から誤解され、蔑まれたとしても、何の問題もないのだと、安息しました。
 

 しかし次の瞬間、また新たなことに気付かされました。
 私が「霊の世界」で神様に捧げたものは、結局、「金銭」という「血肉のもの」に過ぎなかったのです。むしろ私は、このことにショックを受けました。
 私は、「血肉のもの」を、「霊の世界」で捧げて満足していたことを恥じ入りました。
 私は、「血肉のもの」以上に、「霊のもの」を、まず第一に神様に捧げるべきことを教えられました。

 

 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
 それから、来て、その供え物をささげなさい。マタイ5:23-24

 

 まず第一に、「霊のもの」、「霊のこと」が優先されなければなりません。
 「霊のこと」をおざなりにして、「血肉のこと」に励んでいても、生けるまことの神様からは何の報いもありません。
 私たちは、すべてのことを、「まず、霊から」始めましょう。

 

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。ヘブル11:1-3

 

 この「血肉の世界」は、初めに「霊の世界」で造られました。
 神が「霊の世界」で完成されたものが、「血肉の世界」においても成就されることは、「霊を見ることのできない者たち」が、神が生きておられることを知るためです。
 神が生きておられ、約束をたがうことなく、ことごとく成し遂げられる真実なお方であることを、「霊を見ることができない者たち」が、「血肉の目」で見て、信じるためです。
 信じて、神の栄光をほめたたえるためです。
 
 しかし、私たちクリスチャンは、「霊を見ることのできない者たち」ではありません。

 アブラムは、神が初めて語りかけてくださったとき、すでに「霊の世界で、神の約束が完成した」ことを悟り、「神の完成図」をしっかりと受け取りました。
 それゆえ、その「霊の世界で完成しているもの」を、「血肉の世界においてもまた実現する」ために、神の示された通りに、「神の示された地」に、踏み出していきました。

 

 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。出エジプト記25:8-9

 

 よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。出エジプト記25:40

 

 あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。出エジプト記26:30

 

 山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。出エジプト記27:8

 

 山は、いと高き所にお住まいになる神様との会見の場でした。
 モーセは、霊の中で、「神の完成図」を受け取りました。
 「霊の世界」では、その幕屋はすでに完成していました。
 モーセは、信仰によって、「霊の世界で完成した幕屋」を確認しました。
 モーセの使命は、その「霊の世界で完成した幕屋」を、神ご自身の示された型どおりに「血肉の世界で完成する」ことでした。
 

 信仰とは、「霊の中で、神の完成図を受け取る」ということではないでしょうか。
 私たちは、「霊の世界」ですでに完成されたものを、信仰によって確認し、「血肉の世界」において実現していくのです。
 
 私たちは、霊の中で、神の完成図を受け取ったのなら、もはや「神様、それを完成してください!」と祈る必要はありません。
 まだ「血肉の目」に見えていなくとも、それはすでに完成したのです。
 約束してくださった神様に、「完成してください」と祈ることは、むしろ不信仰でしょう。
 

 では、私たちは祈らなくても良いのでしょうか。
 決してそんなことはないでしょう。
 私たちには使命があります。神ご自身の示された型どおりに、「血肉の世界」で造り上げる使命です。
 私たちは、受け取った完成図の細部についても、日々、山に登り、神ご自身から、その型をお示しいただかなければならないのではないでしょうか。
 
 「霊の世界」で完成することと、「血肉の世界」で完成することの間には、著しいタイムラグがあるかも知れません。
 「霊の世界」は時間と空間の制限を受けないため、自由がありますが、「血肉の世界」は時間と空間に拘束され、様々な物理的制約や限界があります。
 「霊の世界」では一瞬にして完成するものも、「血肉の世界」で完成するには、多くの労苦と忍耐が必要なのです。
 
 しかし、それもまた、神ご自身の定められた型なのです。

 私たちが、日々、神ご自身と会見し、その細部の型について尋ね続けていくならば、たとえ「血肉の世界」での完成が遅くなっても、焦る必要はないでしょう。
 本質的には、「血肉の世界」で完成してくださるのもまた、主イエス様なのです。
 私たちはただ、主様とともに働く同労者です。
 
 「霊の世界」を理解し、「霊の世界」に生きることに焦点を絞るなら、私たちの重荷は何と軽いことでしょう。
 私たちは、信仰によって、「霊の世界」に生きている者であることを、しっかりと確認し、「霊のからだ」に生き、「霊の世界」に安息しましょう。

 

 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。Ⅰテモテ6:12

 

 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。Ⅱテモテ4:5-7

 

 そして、このまったき霊の安息にとどまり、試みる者から受ける「信仰の戦い」を勇敢に戦い、決してこの安息から迷い出ることなく、「血肉の世界」において、私たちの走るべき道のりを走り通しましょう。

 

 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:1-3