いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「罪の告白」という驚くべき神の救い

 

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

 

 これは驚くばかりの神の福音です。
 私たち人間は、たとえ神の御霊をいただいたクリスチャンであっても、肉の弱さゆえに、さまざまな罪を犯してしまう者です。
 神ご自身の聖さの御前には、自分で気付かない罪の多さはいかばかりでしょう。

 

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。詩篇19:12

 

 しかし、神の福音は、こう言います。自分の罪に気付いたときには、「自分の罪を言い表わす」なら、その罪は赦されます。
 この世では、自分の罪を告白すると、裁きを受けます。罰を受けます。
 しかし、神の御前では、そうではありません。罪を告白するなら、赦されるのです。
 単に、その罪が赦されるばかりでなく、「すべての悪からきよめ」られ、神の御目には、まったく聖い者とみなされるのです。
 
 なぜでしょうか。キリスト・イエスが、私たちのすべての罪のために、受けなければならない罰を、完全にお受けになってくださったからです。

 

 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ4:25

 

 しかし、私たちは、「自分が犯した罪」に気付いたならば、その都度、神の御前に告白しなければなりません。
 
 最近、憂いに覚えているのは、「イエス・キリストの贖いによる罪の赦し」を誤って捉えているのではないかと感じられるクリスチャンがおられることです。
 それは、「私の罪は、イエス・キリストの十字架の贖いによって、すべて赦された。キリストの贖いは完全なので、過去の罪だけでなく、現在、未来の罪も、すべて赦される。兄弟姉妹も私の罪を指摘すべきではない。赦し合うべきだ。」といった誤解です。

 

 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。箴言1:32

 

 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。
 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。
 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。エレミヤ6:13-15

 

 ああ、私たちは尊い神の福音を、決して、自分の罪のエクスキューズとして利用してはなりません。
 確かに、イエス・キリストは、私たちのすべての罪のために死んでくださいました。
 しかし、私たちは、「自分の罪を言い表わすなら赦される」のです。
 
 神の福音を、自分の罪の言い訳として利用しているならば、その人は、自分の罪を神の御前に告白しているとは言えません。

 その人は、聖霊によって罪を示され、その罪の一部分をしぶしぶ認めながらも、心の中では、「自分の罪は、止むを得なかったんだ、仕方がなかったのだ」と思っています。「自分は罪の被害者なのだ」とさえ思っているでしょう。
 その人は、自分の犯した罪の本質を理解していません。
  
 罪の本質を理解しないまま、自分の罪の一部分を認めたとしても、救いも平安も与えられません。
 いくら「私は神様に赦されているはずだ」と自分自身に言い聞かせ、自分の良心をなだめすかしたとしても、神の御前に行き、告白していないならば、赦しはありません。
 その人は、もうそれ以上、成長することができなくなってしまいます。

 父なる神様が、私たちに与えてくださった救いは、「罪の告白による救い」です。
 
 情けないことに私たちは自力では、自分の犯した罪の本質を悟ることさえできません。
 私たちは、聖霊の助けによって、自分が犯した罪の本質を悟ることができるように祈り求めなければなりません。
 しかし、自分が犯した罪の本質、そのおぞましさを、聖霊の助けによって徹底的に教えられ、神の御前に告白するならば、それは真に赦されます。

 

 これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。レビ5:5

 

 驚いたことに、「犯した罪を告白する」ことは、旧約の時代から一貫した、神様のみこころでした。

 

 正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。エゼキエル33:12

 

 私たちは、罪を犯して良心が痛むとき、自力で、何か別の善行を行なって、良心をなだめようとすることがあります。
 しかし、人が罪を犯すなら、「自分の正しさによって生きることはできない」のです。

 
 ある「善人」は、言います。
 自分の罪は、自分で責任を取り、自分で尻拭いすべきである。キリストの身代わりによって罪を赦されようなど、身勝手で卑怯である。

 
 確かに、罪を犯しても、誰かが尻拭いしてくれるとしたら、やりたい放題になってしまう危険性があります。それゆえ、高い倫理観を持った人ほど、キリストの救いを拒みがちです。
 
 しかし、私たちは果たして本当の意味で、自分の罪の責任を取りうるのでしょうか。
 「死んでお詫びします」という表現がありますが、私たちの罪は、そもそも死んだくらいのことでは償うことなどできないのではないでしょうか。

 
 ある人は言いました。
 柱に釘を打ちつけてしまって、後で悪かったと思い、反省して釘を抜くことはできる。
 しかし、柱に空いてしまった穴は、もう元には戻らない。
 
 「自分の罪は自分で尻拭いすべき」と考えるとすれば、自分の罪をあまりにも軽く見積もっているか、自分の罪の恐ろしさをあまりにも知らないからではないでしょうか。
 私たちは、情けないことに、自分の罪の重さも、多さも、深さも、忌わしさも、本質的に何もわかっていないのです。

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 

 以前、学校で「いじめ問題」に取り組んでいる教師が、テレビで紹介されました。
 彼女は、加害者側の子どもたちに、自分が行なったいじめを詳細に書き記した作文を書かせているそうです。
 そして彼女は、こんな主旨のことを語っておられました。

  
 「悪いことをした」などというのは、大した反省ではない。自分の行なったいじめが、いかに醜く、卑怯で、残酷なものであったかということに、とことん向き合わせなければ、真の解決にはならない。

 
 出された作文が、いじめの内容の掘り下げ方が浅いものだと、何度でも書き直しを命じます。子どもたちが、自分たちがどんなにひどいことをしたかを真に悟り、あまりの辛さに泣きながら書くようになるまで、徹底的に問題と向き合わせるのだそうです。

 

 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。箴言28:13

 

 私たちは、どんなに辛くても、「自分の罪」のおぞましさと、正面から向き合わなければなりません。
 そして、社会や、環境や、誰か他の人に責任を転嫁せず、「自分の罪」を素直に認めなければなりません。それは、自分が犯した、自分自身の罪なのです。他の人のことは、他の人と神様との間の問題です。
 そして神の御前に、自分が犯した罪を、正直にありのまま告白しなければなりません。
 それがどんなに過酷で、辛い過程であったとしても、「それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」のです。

 

 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ 詩篇32:3-5

 

 神の福音は、「イエス・キリストの贖い」+「私の罪の告白」による救いです。
 「人の努力による罪の解決」による救いではありません。
 もし私が、自分で罪を解決してからでなければ、神のみもとへ行けないのであれば、私は決して神のみもとへ行くことはできず、私に救いはないでしょう。

  
 自分の罪に対して、何の解決能力もないあわれな罪人のままで、私たちはイエス・キリストの御血を携えて、畏れおののきながら、神の御前に出て、ただ自分の犯した罪を正直に告白するのです。
 あわれみ深い神様は、私たちが自分の罪のおぞましさを真に悟り、二度とその罪に関わりたくないと震えおののくほどに、私たちが聖い心を持つようになることを喜ばれます。

  
 私たちは、残念ながら罪を犯してしまう者です。
 しかし、自分の罪を告白するならば、赦されます。
 あわれみ深い父なる神様と、御子イエス様の尊い贖いのみわざのゆえに、真心から御名をほめたたえ、御救いに感謝します。

  
 主よ。どうか弱い私たちが、子どものように素直に自分の罪を認めることができるように、助けてください。
 そして、あなたが私たちとともにいらしてくださって、恐れることなく父なる神様の御前に進み出て、自分の罪を正直に告白できるように、励ましてください。
 愚かで幼い私たちが、あわれみ深い神様の赦しと、きよめにあずかることができますように。
 そして、私たちが心から罪を憎み、罪から離れ、神が聖くあられるように、さらに自分自身をこの世から聖別し、光の子どもらしく成長していくことができますように、絶えず助け、導いてください。

 

 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
  
 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
  
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
  
 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
 もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
 この方こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく全世界のための、―なだめの供え物なのです。Ⅰヨハネ1:5-2:2