いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

忍耐をもって、神の御国を求め続ける

 

 

 アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席した。
 そのとき、王は輝かしい王国の富と、そのきらびやかな栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ。
 
 この期間が終わると、王は、シュシャンの城にいた身分の高い者から低い者に至るまですべての民のために、七日間、王宮の園の庭で、宴会を催した。そこには白綿布や青色の布が、白や紫色の細ひもで大理石の柱の銀の輪に結びつけられ、金と銀でできた長いすが、緑色石、白大理石、真珠貝や黒大理石のモザイクの床の上に置かれていた。
 
 彼は金の杯で酒をふるまったが、その杯は一つ一つ違っていた。そして王の勢力にふさわしく王室の酒がたくさんあった。それを飲むとき、法令によって、だれも強いられなかった。だれでもめいめい自分の好みのままにするようにと、王が宮殿のすべての役人に命じておいたからである。エステル1:2-8

 


 ペルシヤ王国には、この世の輝かしい「富」と、きらびやかな「栄誉」がありました。
 その上、この王国では、城にいた身分の低い者までが、七日間もの「宴会」にあずかることができました。さらに、お酒を飲むときには、だれでもめいめい自分の好みのままにする「自由」がありました。
 この王国には、この世の人々が好み、願う、すべてのものがあるかのようでした。

 

 王妃ワシュティも、アハシュエロス王の王宮で婦人たちのために宴会を催した。
 七日目に、王は酒で心が陽気になり、アハシュエロス王に仕える七人の宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスに命じて、王妃ワシュティに王冠をかぶらせ、彼女を王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。
 しかし、王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。エステル1:9-12

 

 しかし、この「豊か」で「自由」に満ちた王国には、王妃の王に対する「従順」はありませんでした。
 この王妃は、王によって、すべてに満ち足りていたにもかかわらず、その祝福は、かえって王妃をおごりに導いてしまいました。
 王の怒りは、もっともなものでした。
 結局、王妃の位は、おごり高ぶったワシュティから取り上げられ、この国の者ではないエステルに与えられてしまいました。

 

 モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。
 
 するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。
 「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」
 
 彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、モルデカイはエステルに返事を送って言った。
 「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
 
 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」エステル4:8-16

 

 ハマンの悪巧みによってユダヤ人を滅ぼすための法令が発布されたことを聞かされたエステルは、自分の民族が滅ぼされないように、いのちがけで王にあわれみを求めることを決心しました。
 しかしエステルは、王にあわれみを乞う間もなく、召されないで内庭に入った時点で、死刑に処せられる危険性がありました。
 にも関わらずエステルは、シュシャンにいるユダヤ人たち、自分の侍女たちとともに、三日三晩、断食をして、王のところに向かいました。

 

 さて、三日目にエステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の内庭に立った。
 王は王室の入口の正面にある王宮の玉座にすわっていた。
 王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、王は手に持っていた金の笏をエステルに差し伸ばした。
 そこで、エステルは近寄って、その笏の先にさわった。
 王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」エステル5:1-3

 

 彼らの祈りと断食は、神の御前に覚えられ、エステルは王の格別の好意を受けました。
 死刑に処せられなかっただけでも、大きなあわれみでしたが、「何がほしいのか。」と、望みのものまで、はばかることなく王に申し上げる恵みを受けました。

 

 エステルは答えた。
 「もしも、王さまがよろしければ、きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」エステル5:4

 

 しかし、エステルは、単刀直入に、「ユダヤ民族を滅ぼすという法令を破棄してください。」とは、お願いしませんでした。
 いったいなぜエステルは、こんな千載一遇の好機を、みすみす見送ってしまったのでしょうか。
 エステルは、一気呵成に、問題解決を図るべきではなかったのでしょうか。
 それは、効率主義者の私には、ほとんど理解できない戦略でした。
 
 「王国の半分でも、あなたにやれる」とは、王にとって最高の贈り物でした。
 それは、王の財産の半分を与えるということです。下位の者が、王よりも多くの財産を持つことはあり得ませんから、王と同等の財産を与えるという言葉は、王の最大限の好意を示すことでした。
 にもかかわらず、エステルは、その財産には、飛びつかなかったのです。
 王にとっても、エステルの答えは、理解を超えた意外なものだったでしょう。
 
 いったいエステルは、何を求めているのか。
 王国の半分以上に、願うべき価値あるものなどあるのだろうか。
 
 しかし、いのちを賭して内庭に入ってきたエステルが求めたことは、王さまのために設ける宴会に、ハマンとともにお越しいただきたいという、思いがけないものでした。
 富と贅沢に飽き飽きしていたであろう王は、このエステルの趣向に、非常な興味を抱いたことでしょう。

 

 すると、王は、「ハマンをせきたてて、エステルの言ったようにしよう。」と言った。エステル5:5

 

 こうして当日のうちに、エルテルの宴会が催されました。

 

 王とハマンはエステルが設けた宴会に出た。
 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
 
 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」エステル5:5-8

 

 酒宴の席で、王は興味津々に、再び、エステルの願いを聞き出しました。
 しかし、エステルは、この好機をも見送ってしまいました。
 下手をしたら、王の怒りを招きかねないような、あまりにももったいぶった愚策ではないでしょうか。
 しかし、エステルも、その危険性は充分に承知していました。それゆえ、「もしも王さまのお許しが得られ」、「王さまがよろしくて」、「私の願いをゆるし」、「私の望みをかなえていただけますなら」と、屋上屋とも言えるほど言葉を尽くして、極めて慎重かつ謙遜に、もう一度、ハマンとともに宴会にお越しくださるようにと願いました。
 そして、「あす」の展開に、望みを託しました。
 
 このエステルの答えに、王の返事は記載されていません。
 王も内心、穏やかではなかったでしょうが、エステルの真摯な態度と、「あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」という言葉に、何か重大な願いであることを感じ取ったのではないでしょうか。

 

 王とハマンはやって来て、王妃エステルと酒をくみかわした。
 この酒宴の二日目にもまた、王はエステルに尋ねた。
 「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」エステル7:1-2

 

 そして、王は、これで三度目となる質問を繰り返しました。
 王の好意は、このときも変わることなく、王国の半分でも授けようと繰り返されました。
 
 「王国の半分」。
 私はふと思いました。
 もしかしたらエステルは、「王国の半分」ではなく、「王国のすべて」を願っていたのではないでしょうか。

 

 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。マタイ11:12

 

 エステルがきっちりと焦点を絞って、希求していたものとは、「地上の王国の半分」ではなく、「神の国のすべて」だったのではないでしょうか。
 しかし、この王の提示されたものは、三度目もやはり、「王国の半分」に過ぎなかったのです。

 

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。マタイ4:8-11

 

 主イエス様も、四十日四十夜断食したあと、空腹で心身ともに弱り果てていたときに、悪魔から三度、試みられました。
 「王国の福音書」と呼ばれる「マタイの福音書」によると、悪魔からの最後の試みは、「もしひれ伏して、悪魔を拝むなら、この世のすべての国々とその栄華を、全部あなたに差し上げましょう。」という誘惑でした。
 しかし主イエス様は、「この世のすべての国々とその栄華」には、何ら心を動かされませんでした。
 主イエス様が焦点としておられたのは、目には見えない「神の国」だったのではないでしょうか。

 

 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。エペソ1:11

 

 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。エペソ1:14

 

 この主イエス様の尊いご生涯、御死とよみがえりを通して、私たちクリスチャンは、天の御国を受け継ぐ者とされました。

 

  イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。黙示録1:5-6

 

 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」黙示録5:9-10

 

 黙示録によれば、主イエス様によって贖われた私たちクリスチャンは、「王国」であり、「神のための祭司」です。
 「人」=「王国」というのは、人間の考えでは理解しにくいのですが、聖書によれば、私たちが王国そのものなのです。

 

 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。
 「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:20-21

 

 ここで主イエス様は、目に見えるものばかりに心を奪われているパリサイ人たちに、神の国は、人の霊の中に到来するものであることを教えられたのではないでしょうか。
 贖われた神の民の霊は、神の御目には、神のお喜びである「王国」そのものです。
 
 「王国の半分」。
 主イエス様が、「この世のすべての国々とその栄華」を一蹴されたのと同様、エステルも、中途半端な妥協はしませんでした。
 もうこれで三度目なのだし、分相応なところで手を打っておいた方が、身のためなのではないだろうか…、などとは、考えなかったのです。
 エステルがひたすら願っていたのは、「神の国のすべて」か、さもなくば死を、だったのではないでしょうか。

 

 王妃エステルは答えて言った。
 「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。私も私の民族も、売られて、根絶やしにされ、殺害され、滅ぼされることになっています。私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたでしょうに。事実、その迫害者は王の損失を償うことができないのです。」エステル7:3-4

 

 霊的な意味において、「神の国」とは、「贖われた神の民」によって構成されています。
 エステルが理解していた「神の国のすべて」とは、「神の民のいのちそのもの」だったのではないでしょうか。
 
 エステルは、重ねて王の前にひれ伏し、言葉を尽くして王に嘆願しました。
 エステルの願いとは、「王の法令によって死に定められていた神の民」のいのちを贖い、「いのちを与えていただく」ということでした。

 

 アハシュエロス王は王妃エステルに尋ねて言った。「そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。」
 エステルは答えた。「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです。」
 ハマンは王と王妃の前で震え上がった。エステル7:5-6

 

 こうして最後まで、失望することなく、この世と妥協することなく、いのちを賭しても、神の国から焦点を外さなかったエステルは、遂に王の心を動かし、王によって、勝利を収めました。

 

 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
 それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:1-5

 

 エステルが最期まで失望せずに、焦点の水準を下げずに、勝利を収めたように、私たちも、決して失望すべきではありません。
 私たちに与えられた患難は、忍耐を生み出します。
 その忍耐は、やがて練られた品性を生み出します。
 そして、練られた品性こそが、希望を生み出すのです。
 
 希望とは、漠然とした望みではありません。
 希望は、患難と、忍耐と、練られた品性を通して、最後にもたらされるのです。

 

 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。Ⅰコリント13:13

 

 こうしてもたらされた希望は、いつまでも残ります。
 「患難さえも喜ぶ」。それはやがて、希望に至るからです。

 

 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。ヘブル6:19

 

 私たちも、昔書かれたものから学び、約束された真実なお方から目を離すことなく、終わりの日まで、このお方にあって、与えられている走るべき行程を走り尽くしましょう。

 

 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。ローマ15:3-5

 

 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。ヘブル3:6