これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。
神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」創世記22:1-2
神を礼拝するには、何かささげるものが必要です。
私は2年以上前に、主様からひとつの約束をいただきました。
しかし、それは目に見えるすべての現象と、霊的な兄弟姉妹によってさえ、否定されてきました。
私が悔い改めるべき勘違いであれば、悔い改めさせてくださいと祈り、兄弟姉妹にもそのようにお願いしてきました。
しかし、主様は私の不信仰に驚かれるだけで、私の重荷は取り去られませんでした。
私は主様の御前に、泣きました。
そして、祈りました。
主様がお命じになったことは、与えられた力の限り、行なってきたつもりです。
こうして約束の日から、すでに2年数か月の歳月が流れました。
私の祈りに力がないのでしょうか…。
私はもっと熱心に叫ぶべきなのでしょうか…。
そして私は、神を礼拝することを教えられました。
見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。
そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。マタイ2:9-11
東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をささげて、御子を礼拝しました。
「黄金」のまばゆいばかりの麗しさは、神様のご栄光を、「乳香」の甘い香りは、ささげる者の熱い愛を、遺体の防腐剤として使われていた「没薬」は、肉の死を表わしているのではないでしょうか。
神を礼拝する者は、何かささげるものが必要です。犠牲が必要なのです。
彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、モルデカイはエステルに返事を送って言った。
「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
エステルはモルデカイに返事を送って言った。
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」エステル4:12-16
私は、「死ななければならないのなら死のう」と思いました。
すると新年聖書学び会で、偶然行き会った信仰の大先輩が私に、こんな話をしてくださいました。
若かりし頃、綱渡りのような生活苦の中を通らされた。度々の困難があり、これでダメならもう信仰を捨てようと思ったこともあった。
私はそれを聞きながら、涙がこぼれました。みな同じような道を通って来られたのだと思いました。
私の約束には、「相手」が必要でした。もし「相手」が、主様のみこころではないと断言されるのであれば、それは初めから、神の約束ではなかったのでしょう。
私も、これでダメならもう信仰を捨てようと思いました。
それは、「私には神の御声を聞く力などない」という意味なのですから。信仰の失格者です。
私はただひとりで、「カルバリという礼拝の道」に進もうと思いました。
礼拝には、犠牲が必要です。十字架とは、最高の礼拝です。
そして主様は、その道を開いてくださいました。
私に聞こえているのは、「用意をしなさい」というみことばです。
私は礼拝者たちが、どのように用意したかを調べてみました。
アブラハムは、イサクをささげるように求められました。それは神を礼拝することでした。
しかし神は、アブラハムに「いつとか、どんなときとかいうことは(使徒1:7)」、お示しにはならなかったのです。
「神のとき」は、多くの場合、明らかにされていません。
アブラハムは、「翌朝早く」、出かけました。これはアブラハムの神への忠誠さの表れでしょう。
神は、人にいけにえを強要されることはありません。
ただ、自ら進んでささげるささげものを見て、ささげる者の心を喜ばれます。
自ら進んでささげるささげものならば、速やかである方が幸いでしょう。
そして私は、アブラハムが約束の子イサクを与えられた「神のとき」も調べてみました。
すると、ひとつのことに気付きました。
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。創世記16:1
「神のとき」は、この場合も、隠されていました。
かつてアブラムは、神によって子孫を与えられることを告げられましたが、その実現まで25年の歳月が流れています。
忍耐にもほどがあります。
いったいどれくらいの信仰者が25年もの間、神の約束を待ち続けることができるのでしょう。
最初から「25年後」とはっきり知らされていれば、それなりの待ち方もあるでしょう。
しかし、アブラムは、いつとも知れない約束を、日々、肉の身体は衰えゆき、ますます目に見える現実の可能性はしぼんでいく中で、待ち続けたのです。
しかし、聖書を読む限り、アブラムが約束の実現について、焦っている様子はまったく感じられません。ほとんど約束を忘れているかのように淡々としています。
しかし、妻であるサライの重荷はいかばかりであったでしょう。
たとえ約束がなかったとしても、当時の妻にとって、子が与えられないことほど、みじめで悲しいことはなかったのではないでしょうか。
かつて日本でも、「嫁して三年、子なき女は去る」と言われたように、子を産まないことは、「妻の側の問題」と考えられていたのではないでしょうか。
しかも夫アブラムは、神から子孫を与えられると約束されているのです。
すでに10年が過ぎようとしていました。この間、サライの肉の身体も、目に見えて衰えていったでしょう。
サライは、自分の不甲斐なさを責め、悩み苦しまなかったでしょうか。
ああ、夫アブラムは、神に喜ばれ、神に子孫を約束されているのに…。
もしかしたら、私が神から嫌われ、退けられているのではないか…。
確かに夫アブラムは、子孫を約束されたが、私自身は子孫を約束されていない。神は「誰の胎から生まれる」とは、言っておられない。…ということは、ひょっとすると、夫アブラムは、他の女性によって、子孫を与えられるという意味なのではないか…。
私は、自分を十字架につけるべきではないのだろうか。
夫アブラムが、神の祝福を受けるために、私の犠牲が必要なのではないだろうか…。
彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」
アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。創世記16:1-3
この箇所について、よく妻サライの不信仰が語られますが、本当にこれは、「単なる不信仰」から出たことなのでしょうか。その解釈は、あまりにもサライにとって、酷ではないでしょうか。
いったい妻は、子ども欲しさゆえに、自分の夫に喜んで他の女性を勧めるでしょうか。
サライの悩み、苦しみ、痛み、悲しみは、いかばかりであったことでしょう。
思い詰めたサライは、意を決し、自分を犠牲にして、夫アブラムに、女奴隷のところに入ることを提案しました。
夫アブラムは、それを聞き入れました。
彼らの信仰は一致していました。彼らは、むしろ「神の約束を信じていたので」、何としてもそれを実現させなければならないと「考えた」のではないでしょうか。
彼らは、「神のために犠牲を払った」のではないでしょうか。
しかし、それは「単純な信仰」ではありませんでした。
実に「複雑な信仰」、「論理的な信仰」でした。信仰から発しているものの、「熟慮の末」に導き出された、「彼らの決断」でした。
これは最終的に、やはり「信仰」とは言えませんでした。
そして私はようやく、「これでダメならもう信仰を捨てようと思ったこともあった。」と語られた兄弟が、いくつかの話題の最後に、「大事なのは単純な信仰だよ。神の約束はことごとくなる。」と語られたことを、思い出しました。
幼い頃から漠然とした自殺願望があり、ストイックな私は、「死ぬこと」にあまり躊躇がありません。
しかし主様に心を探られたとき、「私が死ななければならないのなら死にます」と言った真の動機は、この重荷から一日も早く解放されたいからでした。
むしろ自らの手で、徹底的に打ち砕き、それが神の約束ではないことを証明したかったのです。
確かにそれは、信仰から出ていませんでした。
信仰から出ていないことは、みな罪です。ローマ14:23
それは、神の御前に、最悪の罪でした。
すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。
もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。
その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。ヘブル8:3-5
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。ヘブル9:8
これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。ヘブル10:18-20
私が「自分を十字架に付けよう」と決意することは、まったく主様の望むところではありませんでした。
人の手による旧約のささげ物は、唯一の完全なささげ物によって、すでに廃止されたのです。
この完全なささげ物に、「私の何か」を付け加えることによって、私が完成しようなどと考えることは、この贖いのみわざの完全さと尊さを理解しない、まったく不敬虔極まりない不遜な振る舞いでした。
私たちが、辛く、苦しい「カルバリへの道」を、思い詰めた表情で歩むことは、主様のお喜びとするところではありませんでした。
主イエス様が、その花嫁である、愛する私たちのために備えてくださった道は、「まことの聖所への道」、「新しい生ける道」でした。
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。出エジプト記12:5-8
旧約のイスラエルの民が、過越しの日に食べたのは、「傷のない、火で焼かれた、一歳の雄の羊」と、「種を入れないパン」と、「苦菜」でした。
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。Ⅰコリント11:23-26
しかし、パウロが主イエス様から啓示された、新しい晩餐のテーブルには、「傷のない、火で焼かれた、一歳の雄の羊」と「苦菜」は、ありませんでした。
主イエス様は、私たちに、「死」と「苦み」を、何も残されませんでした。
それらはすべて、完全なささげ物となられた主イエス様が、お引き受けくださいました。
それらに代わり、主イエス様が私たちのために残してくださったものは、「パン」と「ぶどう酒」でした。
それは、主イエス様の「からだ」と、「血」をかたどったものでした。
このパンが作られるために、小麦はきめ細やかになるまで粉々にひかれ、練られ、火で焼かれました。
このぶどう酒が作られるために、ぶどうの実は、押し潰され、注ぎ出されました。
私たちは主日ごとに、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、罪人であった私たちを贖い、聖い神の御前に立たせるために、ご自身のいのちをささげてくださった主イエス様の御死を覚えます。
今、私たちが主日に受け取るのは、主様の尊い御死の「苦さ」ではなく、「心地よい塩味」と「芳醇な香りの甘さ」だけです。
ああ、私たちの主イエス様は、なんというあわれみ深いお方なのでしょう。
昨日、あるテレビドラマのセリフが心に留まりました。
「お父さんは、あなたたちには、実家に帰った時くらい、子どもでいて欲しいのよ。」
その子どもたちは、ようやく成人し、里帰りした時、お父さんのためにと、せっせと働き詰めだったのです。
お父さんは、子どもたちのあくせくしている様子を見て、「私たちはもう一人前になったから、お父さんの助けがなくても何でもやっていける」と言われているように感じ、とてもさみしかったのです。
お父さんはむしろ、子どもたちには、甘えて、くつろいで欲しいし、ゆっくり会話を楽しみたかったのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。ローマ8:12-16
私たちは、「肉の欲求や人の意欲によって(ヨハネ1:13)」、自分を十字架につけようとしてはなりません。
確かに私たちには、「負うべき自分自身の重荷(ガラテヤ6:5)」があります。主様によって、負わされたのなら、すでに与えられている賜物の量りにしたがって、それを担うべきでしょう。
しかし、主様がお与えにならなかった重荷を、勝手に担って苦しもうとしてはならないのです。
それは、主様の十字架の完全さを否定することです。
私たちが神を礼拝するとき、ささげるべき犠牲は、唯一、完全なるささげもの、主イエス様だけです。
私たちは、この完全なささげものに真心から感謝し、この唯一であり、完全であるささげものだけを携えて、ひれ伏して神を礼拝しましょう。
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。エペソ3:12
私たちは今、愛されている「神の子ども」です。
「神の子ども」らしく、素直で、柔和で、貧しいままで、約束してくださった父なる神様に対する「単純な信仰」に安息しましょう。
主の御手は、決して短くはあられません。
神が約束されたことは、ことごとく実現するのです。
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。ヘブル11:11-12