いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

暗黒の恐怖の中で、神を礼拝する

 

 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。マタイ27:44-46

 

 主イエス様は、激しく鞭打たれ、つばきされ、あざけられ、十字架に釘づけられ、なお、ののしりをお受けになりました。
 それは、ひどい暗黒のときでした。
 
 すべての人に見捨てられ、父なる神様からも見捨てられました。
 そのこころは、張り裂けんばかりでした。
 肉体も極限の苦しみにありました。
 心の鈍い私には、とてもその御苦しみを表現することはできません。

 

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:6

 

 女が罪を犯したとき、「いっしょにいた夫」は、黙ってそれを食べました。
 私たちの犯した罪を、私たちの花婿なるお方は、お引受けになられたのです。

 

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。Ⅰペテロ2:24

 

 しかし、「イエスといっしょに十字架につけられた強盗ども(マタイ27:44)」は、それを理解できず、神をののしりました。

 

 「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」ルカ23:39

 

 私は暗黒のときに、ただ自分が救われることを求めます。
 しかし、神はそれにお答えにはなりません。
 神の沈黙。それは、ひどい暗黒の恐怖です。
 
 私には、もう御声を聞くことはできないのだろうか。
 私に与えられた約束は、初めから神の御声ではなかったのではないか。
 
 人から捨てられ、神からさえも見捨てられたかのように感じられるとき、私たちはいったいどうしたら良いのでしょう。
 
 そのとき、ひとりの兄弟のメッセージが心にとまりました。
 神を礼拝しなさい。
 
 私は光を受けて、改めて、主様が十字架にかけられる前、何を祈られたのかを調べてみました。
 そのとき、ひとりの女の礼拝する姿を目にしました。

 

 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。マタイ26:7

 

 この女は、何を見ておられたのでしょう。
 死んでしまうお方をあわれんで、せめてもの、はなむけとして、香油を注がれたのでしょうか。
 やがて来たるべき王として、油を注がれたのでしょうか。
 罪人の分際で、ましてや女が、主様に油を注ぐなど、あまりにも恐れを知らない、大胆不敵な行動ではないでしょうか。

 

 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」マタイ26:8-12

 

 しかし、主イエス様だけは、この女の心の思いと、彼女の払った犠牲の大きさとを知っておられました。
 主様は、それを「畏れ多い不遜な振る舞い」とは退けられず、喜んでお受けになり、祝福してくださいました。
 
 この後、主様は過越しの食事をされます。

 

 イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。マタイ26:18

 

 そして、この場面から、「いっしょに」というみことばが、繰り返し登場することに心が留まりました。
 主イエス様は、「弟子たちといっしょに」過越しの食事をとることを望まれ、食卓につかれました。

 

 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
 弟子たちはみなそう言った。マタイ26:34-35

 

 幸いなことに弟子たちみなは、「主イエス様といっしょに死ぬ」覚悟を持っていました。

 

 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。マタイ26:36-37

 

 主イエス様は、「弟子たちといっしょにいること」を望まれ、彼らをゲッセマネに連れて行かれました。
 そして、選ばれた弟子たちは、さらにその先へと、いっしょに連れて行かれました。

 

 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」マタイ26:38

 

 主イエス様は、選ばれた弟子たちに、その死ぬほどの深い悲しみを打ち明けられ、「いっしょに目をさましていること」を望まれました。

 

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
 
 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
 
 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
 
 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」 マタイ26:39-46

 

 主イエス様は、最後まで、弟子たちに「いっしょに目をさまして、祈っていること」を願い続けられました。
 しかし、弟子たちは…、…、…。

 

 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。ルカ9:22-23

 

 人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。ルカ17:25

 

 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。ルカ20:17

 

 私たちはまず、多くの苦しみを受け、捨てられなければなりません。

 

 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。ガラテヤ1:4

 

 キリストは、神のみこころに従って、ご自身をお捨てになられました。

 

 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめに会った人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。ヘブル10:32-35

 

 目に見える世界が暗黒であっても、私たちは自分の確信を投げ捨てて、神を疑ったり、自分をあわれんだりするべきではありません。

 

 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
 しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 
 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。 ヨハネ16:31-17:1

 

 主イエス様は、この後、最愛の父なる神様からも見捨てられることをご存じだったでしょう。
 しかし、それでも主様は、「父がわたしといっしょにおられる」ことを確信しておられました。
 それは、罪人たちの身代わりとなられた「人としてのイエス」は、父なる神様から捨てられても、「神の御子としてのキリスト・イエス」は、父のみこころの中で、まったくひとつに結ばれているという確信だったのではないでしょうか。

 

 私はキリストともに十字架につけられました。
 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

 

 私たちの十字架は、この父なる神様からさえも捨てられた「キリストといっしょに」歩む道なのです。主イエス様は、どんなときでも私たちといっしょにいることを望んでおられたお方です。
 
 たとえ神から見放されているかのように感じられたとしても、主イエス様は、私たちとともにおられます。
 そして、主イエス様が、その目に見える状況にかかわらず、父のみこころの中で、父とまったくひとつであったように、私たちも父なる神様のみこころの中で、ひとつなのです。
 
 インマヌエル。神が私たちとともにおられる。
 これこそ私たちの確信であり、信仰です。
 私たちの「信仰の創始者であり、完成者であるイエス(ヘブル12:2)」様を見上げ、暗黒の中で、唯一まことの神を礼拝しつつ、キリストの道を前進して行きましょう。

 

 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。Ⅱコリント4:12-15