いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「愛によって働く信仰」 信仰とは、究極の愛

 

 イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。マタイ13:58

 

 信仰とは、何でしょうか。
 私は、いったいどこまで主様とそのみことばに信頼しているのだろうと自問することがあります。
 
 クリスチャンが、「多くの奇蹟」を望むことは、不信仰でしょうか。
 確かに私たちは、奇蹟の有無によって、主様を試みるべきではないでしょう。
 たとい私たちが地上に暮らすわずかの間に、何一つ奇蹟を、この目で見なかったとしても、主様は生きておられ、真実なお方です。
 
 しかし、私たちは、「多くの奇蹟」を求めないことが、むしろ信仰的であるかのような、サドカイ人的な「良識ある信仰者」に陥るべきではないのではないでしょうか。
 
 私たちが、ほとんど何の奇蹟も見ていないとすれば、それは主様が、私たちクリスチャンに「良識的な現実主義者」となるように求めておられるからではなく、「私たちの不信仰のゆえ」ではないでしょうか。

 

 期待が長びくと心は病む。箴言13:12

 

 私たちは、主様に期待して、多くのことを祈りました。そして、今も祈っています。
 しかし、期待が長引くと、心は病み、やがて「良識的な現実主義者」となり、心のうちでは冷めきった、形式的な祈りになりがちです。
 いったいこれは、祈りなのでしょうか。お題目なのでしょうか。
 主様は、このような祈りに、お応えになるべきなのでしょうか。

 

 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。ヨハネ16:9

 

 私たちクリスチャンは、イエス・キリストに対する信仰ゆえに、神の御目には、義と認められ、永遠のいのちをいただく者となりました。
 しかし、私たちが、主様とその約束のみことばを信じないなら、それは罪です。
 私たちは、様々な種類の罪を思い浮かべますが、罪とは、本質的に「不信仰」です。
 「不信仰」とは、人の最大の罪です。
 「彼らの不信仰」、集団の不信仰は、なお恐るべき罪です。

 

 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。ヨハネ9:31

 

 もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。 ヨハネ8:24

 

 もし私たちが、心病んで、不信仰のうちにいるなら、確かに私たちは、自分たちの不信仰の中で、何の希望もなく死んでいるのです。

 

 イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」ルカ7:50
 
 イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」ルカ8:48
 
 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」ルカ17:19

 

 彼らは、確かに信仰によって、いやされました。
 謙遜な主イエス様は、いつもへりくだって、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」とおっしゃってくださいましたが、本質的には、「彼らの信仰深さ」が彼らを救ったのではありませんでした。
 「主イエス様の真実なみわざと、みことば」が、彼らを救ったのです。
 
 ただし主イエス様が、どれほど真実なお方であったとしても、もし彼らが信じなければ、それは実現しませんでした。
 それゆえ主様はへりくだられ、「あなたがわたしを信じたので、わたしは地上でみわざを実現し、父の栄光を現わすことができました」とおっしゃられたのではないでしょうか。

 

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。ヨハネ15:7-8

 

 私たちが、信仰によって祈り求めることは、主イエス様のご命令でした。
 主イエス様の十字架のみわざは、すでに成し遂げられたのです。主様のみわざには、何の欠けもありません。
 あとはただ、私たちの信仰にかかっているのです。
 
 私たちが主イエス・キリストのうちにとどまり、そのみことばが私たちのうちにとどまるなら、その信仰による祈りは、実を結ぶことが約束されています。
 そして、実を結ぶことにより、父なる神様はご栄光をお受けになるのです。

 

 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。
 これを見て民はみな神を賛美した。ルカ18:42-43

 

 聖書には、信仰によって、いやされた多くの人々の記事があります。
 それらの記事は、まるで瞬間湯沸かし器のように、あまりにも簡単に、いやされているように読めます。
 
 しかし私はふと、彼らは「まさに主イエス様にお会いする日」まで、どれほど長く祈っておられたことだろうと思いました。
 聖書に書かれていないことについては、あまり論じるべきではありませんが、彼らは棚からぼたもち式に、ラッキーチャンスに恵まれたのではないのではないでしょうか。
 
 困難な環境の中で、長い間、期待して祈り続け、そして、祈ることにうみ疲れてしまったことも数限りなく、あるときは、目に見える人や物に頼ってしまったことも、あるいはあったかも知れません。
 それでもなお、主なる神様に頼りまつる他、なすすべもないことを改めて教えられて、ほとんど力尽きた腕をもって、わらをもすがる思いで祈り、風前のともしびのような信仰の灯を、ともし続けておられたのではないでしょうか。
 
 この信仰の灯が、もし立ち消えていたとしたら、彼らは主イエス様がお通りになるときに、千載一遇のチャンスを逸してしまっていたかも知れません。

 

 天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
 
 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。マタイ25:1-13

 

 信仰とは、「瞬間風速」ではありません。それは、たとい細くとも長く続く信頼です。
 賢い娘たちさえ、「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた」のです。
 このたとえは、弱い私たちにとって、大きな慰めです。
 眠ってしまった自分を責めて、信仰の失格者であるかのように、主イエス様から遠ざかるべきではありません。
 
 賢い娘たちも、愚かな娘たちも、みな弱かったのですが、その違いは、ただ「油の備え」の有無でした。

 

 見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。その回りには、イスラエルの勇士、六十人の勇士がいる。
 彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。雅歌3:7-8

 

 「御霊の与える剣、神のことば(エペソ6:17)」を帯び、「備え」をした勇士たちの姿は、何と整然と美しいことでしょう。

 

 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。
 ところが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、非常に怒り、彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた。
 しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。ネヘミヤ4:6-9

 

 「備え」は、一朝一夕のことではありません。
 彼らは、神に祈り、仲間たちとともに、備えて働き続けました。
 彼らもみな弱かったでしょうが、仲間たちがいたので、交代で眠りをとりながらも、日夜見張り続けることができました。

 

 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
 
 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
 
 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。出エジプト記17:8-13

 

 ヨシュアにはヨシュアのなすべき働きがありました。
 モーセにはモーセの、アロンにはアロンの、フルにはフルの、それぞれの働きがありました。
 彼らの信仰による祈りと働きは、ともに組み合わされて、勝利を得、そこに神のご栄光が現わされました。

 

 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。」
 
 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
 
 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。使徒1:4-9

 

 主様は、ただ「父の約束を待ちなさい」とお命じになりました。
 いったいいつまで待てばよいのかは、明らかにされることはなく、「知らなくてもよい」と言われました。
 彼らは、いつとも知れぬその約束を、ただ「ぼんやりと待っている」こともできたのではないでしょうか。
 「父の約束なのだから」、「主イエス様のみことばによって保証されているのだから」と、「好き勝手なことをしながら、待っている」こともできたのではないでしょうか。
 それでも、「私は確かに待っていました」と抗弁することもできたでしょう。
 しかし、彼らは祈ったのです。

 

 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。使徒1:13-14
 
 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒2:1-4

 

 彼らは、集まって、みな心を合わせ、祈りに専念していたのです。
 その祈り会は、延々と五旬節の日まで、続けられていたのではないでしょうか。
 そして、遂に、聖霊バプテスマが注がれ、父なる神様のご栄光が現わされました。
 
 彼らも、ひとりひとりはみな弱かったのではないでしょうか。
 彼らはそれぞれに祈っていることもできたでしょうが、もし離ればなれになっていたとしたら、果たしてこのように熱心に祈り続けることができたでしょうか。

 

 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。マタイ18:18-20

 

 「あなたがたは互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と教えられた主イエス様は、私たちが「地上で心を一つにして祈る」ことを、何よりも喜ばれます。
 その祈り会には、主様が参加しておられるのです。

 

 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
 だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。ルカ22:31-32

 

 自分の弱さを自覚していなかったシモンの信仰がなくならないように、主イエス様は、祈ってくださいました。
 この主様の祈りがなければ、もしかしたら、シモンの信仰はなくなってしまい、自分の罪の中で死んでしまっていたかも知れません。
 この偉大な大祭司、主イエス様が、私たちの心を一つにした祈り会に、参加され、弱い私たちをとりなしていてくださるのです。

 

 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。ヘブル3:1

 

 主イエス様も、地上で絶えず祈り続けられました。
 主イエス様は、「信仰の使徒」また「大祭司」でいらっしゃいます。
 主イエス様は、父なる神様に、まったき愛と、信頼を寄せておられました。そして、私たち罪人をも、いのちをかけて真実に愛してくださいました。
 
 信仰とは、「究極の愛」ではないでしょうか。
 愛していない人を信じ続けることは困難です。愛していない人のために、祈り続けることも、なお困難です。
 目に見えるところがどうであっても、私たちはただ愛によって、信じ続けることが可能になります。愛によって、祈り続けることが可能になります。
 弱い私たちの信仰を助け続けてくれるのも、また兄弟姉妹の愛であり、何よりも主イエス様の愛です。

 

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。Ⅰヨハネ4:7

 

 ただ神から出る愛、御霊の愛によって、私たちは、信仰から信仰へと進むことができるでしょう。
 私たちはこの神から出る愛によって、互いに愛し合い、ともに励まし合って、信仰の祈りに前進し、父なる神様に大いにご栄光を現わしていただきましょう。

 

 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。ローマ15:30

 

 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。ガラテヤ5:6