いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神である主は、「燃える炎」を求めておられる

 

 私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。黙示録1:12-14

 

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。黙示録2:18

 

 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。黙示録19:11-13

 

 黙示録に繰り返し書かれているように、神である主の目は、「燃える炎」です。

 

 私たちの神は焼き尽くす火です。ヘブル12:29

 

 私たちの神である主は、「燃える炎」であり、「焼き尽くす火」です。
 「火」は、「神の聖さ」の象徴です。
 「燃える炎」は、偽物と価値のないものを焼き尽くし、不純物をことごとく取り除いて、「真に価値のある聖いもの」だけを取り出す、実に激しく厳しいテストです。

 

 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
 そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。創世記19:23-25

 

 堕落した町ソドムとゴモラは、「天の主のところから降った硫黄の火」によって滅ぼされました。

 

 アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。
 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。
 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」レビ10:1-3

 

 ナダブとアビフは、主がお命じにならない「異なった火」を、主の御前に、勝手にささげたため、「主の前から出た火」によって焼き尽くされて死にました。

 

 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。
 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」民数記16:1-3

  主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。民数記16:35

 

 モーセとアロンに逆らうことによって、主に逆らったコラの仲間たち二百五十人は、「主のところから出た火」によって焼き殺されました。
 
 新約時代のクリスチャンは、主イエス様の尊い贖いのゆえに、感謝すべきことに、「主からの火」によって焼き殺されてしまうことはありません。
 しかし、私たちの肉の性質は、焼かれなければなりませんし、主様は愛とご配慮をもって、焼き続けてくださいます。
 それは、私たちが滅ぼされるためではなく、神の聖さにあずかる者となるためです。

 

 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
 彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。ゼカリヤ13:9

 

 銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。箴言17:3

 

 いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。Ⅰペテロ1:6-7

 

 金は、燃える炉で精錬されて、より純度の高い純金へと、鍛え上げられます。
 「燃える火」は、「完全なもの」を生み出します。
 
 神である主が、求めておられるのは、「完全なもの」です。
 
 「私たちは、弱く不完全な人間に過ぎないし、愛である神様は、そこまで厳格には求めておられないだろう…」などと考えて、私たちの到達すべき基準を、勝手に引き下げるべきではありません。
 
 神である主が、主イエス様の御血をもって、切に望んでおられるのは、中途半端なものではなく、「完全なもの」です。

 

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。マタイ5:48

 

 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:2

 

 「私たち自身」が、完全になるのではありません。「私たち自身」には、完全になる可能性などありません。

 

 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」マタイ19:21

 

 主イエス様は、金持ち青年に、「自分の持ち物」を手放すことを教えられました。
 私たちには、あまりにも多くの「自分の持ち物」があるのです。私の計画、私の考え、私の願い、私の方法、私の経験、私の都合、私の…。

 

 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。コロサイ3:2-5

 

 私たちは、すでに死んだ者として、まず初めに、「私の持ち物」を焼き尽くされなければなりません。
 そのうえで、主イエス様について行くのです。これが、完全になる方法です。
 つまり、「私」ではなく、「主イエス様だけが、完全である」ということです。

 

 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。詩篇18:30-32

 

 主様は、「完全なもの」を、切に求めておられます。
 「完全なもの」を得るために、主様は「燃える炎」を、地上に送られます。

 

 すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。ルカ12:48-4

 

 神である主から、多く与えられた者、多く任された者には、より多くの責任があります。
 主様の「燃える炎」は、初めに、不純物を焼き尽くすために働かれ、次に、「火によって聖められたもの」を、「燃える炎」そのものとします。

 

 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。
 よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。出エジプト記3:1-2

 

 「柴」は本来、はかなく、頼りないものですが、「その柴」は、火で燃えていたのに、焼け尽きることはありませんでした。
 ダニエル記によれば、偶像を拝むことを拒み通したシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人も、縛られたままで、火の燃える炉の中に落とされましたが、何の害も受けることもありませんでした。
 
 神である主は、「燃える炎」です。
 キリストのうちにある者は、「燃える炎の中の柴」のようです。
 「柴」は、焼け尽きることはありませんでしたが、確かに、火で燃えていました。
 
 生きたまま天に引き上げられるほど、神に愛されたエリヤは、「燃える炎」でした。「火の人」でした。
 エリヤは祈りによって、神の権威を現わす「主の火」を天から降らせました。

 

 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。
 ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。
 そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
 
 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
 私に答えてください。主よ。私に答えてください。
 この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
 
 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。Ⅰ列王記18:33-39

 

 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。
 ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」Ⅱ列王記1:13

 

 エリヤの呼んだ「主の火」は、全焼のいけにえばかりか、みぞの水までも、焼き尽くすほどの力のあるものでした。
 神の御力を目の当たりにした民はみな、主こそ神ですと、ひれ伏しました。
 
 主様は、地上に、「燃える炎」を求めておられます。
 私たちは今、「燃える炎」でしょうか。

 

 神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。ヘブル1:7

 

 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

 耳のある者は聞きなさい。
 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。
 彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』マタイ11:12-17

 

 主イエス様から、「きたるべきエリヤ」と称賛されたヨハネもまた、「燃える炎」でした。

 

 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。マタイ3:1-4

 

 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。ヨハネ5:35

 

 「燃える炎」であったヨハネは、荒野で、「主イエス様の贖いの衣」を着て、「天の食物」を食しつつ、神の福音を宣べていました。

 

 満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。Ⅰテモテ6:6-8

 

 ヨハネには、「私の持ち物」は、ありませんでした。
 ヨハネには、「焼かれるべき私物」がなかったので、焼け尽きることのない、神のための「燃える炎」となりました。

 

 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。ヨハネ1:6-8

 

 「ヨハネ自身」は、「燃える炎」ではありませんでした。ヨハネの宣べ伝えているお方こそが、「柴であるヨハネ」を「燃やしている炎」でした。

 

 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。
 その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ルカ3:16-17

 

 このお方、主イエス様こそが、すべてを聖め尽くす「燃える炎」です。
 
 「天の御国」は、今も激しく攻められ、奪い取られています。
 私たちは今、「燃える炎」とされているでしょうか。

 

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
 「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。
 全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。レビ6:8-9

 

 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。
 かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。
 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。レビ6:12-13

 

 私たちは、絶えず、燃え続けているでしょうか。

 

 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。
 しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
 
 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」
 モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。
 もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。民数記21:3-9

 

 「昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた(出エジプト記13:21)」主様は、いつまでも悟ることのないイスラエルの民のつぶやきを聞かれ、民の中に「燃える蛇」を送られました。
 イスラエルの民は、多くの人々が死ぬのを目の当たりにして、ようやくそれが、モーセのみならず、神である主を非難するという罪であったことを悟り、悔い改めて、モーセに、とりなしの祈りを乞いました。
 モーセの祈りを聞かれた神は、「燃える青銅の蛇」を作り、旗ざおの上につけるよう、お命じになりました。

 

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。ガラテヤ3:13

 

  私たちの贖い主は、木にかけられて、ただおひとりで「蛇ののろい」を負われ、神の燃える怒りの炎によって、私たちの罪のさばきを受け尽くしてくださいました。
 私たちの身代わりに、「燃える蛇」となられた主イエス様を信じて、仰ぎ見た私たちは、救われました。
 私たちはみな、この主イエス様の尊い、愛の犠牲によって、救い出されたのです。
 
 「燃える青銅の蛇」は、「燃えているのに焼け尽きない柴」と同じ姿でした。
 「のろわれた蛇」は、燃える炎によって焼き尽くされ、今や「青銅」となりました。
 「青銅」には、「金」のような輝きはありません。しかも、それは「青銅」となっても、しょせんは見栄えのしない「のろわれた蛇」なのです。
 しかし、「青銅の蛇」は、燃えていました。
 
 「燃える炎」であったエリヤも、一度、つまずき倒れました。

 

 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。
 彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
 
 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
 
 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。Ⅰ列王記19:3-8

 

 イゼベルを恐れて、「自分のいのちを救おうと(ルカ9:24)」して、立ち去ったエリヤは、結局、それを救うことができず、「自分の死」を願いました。
 しかし、あわれみ深い主様は、エリヤの死を願わず、代わりにパン菓子と水を、備えてくださいました。
 
 「焼け石で焼かれた一つのパン菓子」とは、主イエス様そのものではないでしょうか。
 私たちの罪のために、全焼のいけにえとなってくださった、主イエス様の考えられない尊い犠牲によって、私たちは贖われました。
 全焼のいけにえとなられた主イエス様は、今や、私たちの食べるパンとなってくださいました。
 
 エリヤは、主様のパンと水によって、いやされましたが、また横になってしまいました。 
 しかし忍耐深い主様は、もう一度、戻ってくださり、同じパンと水をお与えくださいました。
 
 主様の「豊かな慈愛と忍耐と寛容(ローマ2:4)」によって、エリヤは回復させられました。
 よみがえったエリヤは、四十日四十夜、歩き続けて、遂に、神の山ホレブに着いたのです。

 

 私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。Ⅱテモテ1:6

 

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。ローマ12:11

 

 神である主は、神のしもべたちが、「燃え続ける炎」であることを願っておられます。
 何度倒されたとしても、主様は決して私たちをお見捨てになることはなく、助けてくださいます。

 

 義人の祈りは働くと、大きな力があります。
 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。ヤコブ5:16-18

 

 聖書は、「燃える炎」であり、生きて天に引き上げられたエリヤを、「私たちと同じような人」だと教えています。
 私たちも、どのような困難の中にあっても、エリヤの如くに、「焼け石で焼かれたパン」と水をいただいて、いつも回復され、「絶えず燃え続ける炎」としていただきましょう。

 

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
 途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
 
 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
 
 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
 
 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。Ⅱコリント4:8-16

 

 私たちの外なる人が、焼かれて衰え果てても、内なる人は、主様の御力によって、日々、回復され、新しくされています。
 こうして焼かれるものがなくなった「見栄えのしない柴」は、聖められた、神のための「燃える炎」となります。

 

 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。雅歌8:6-7

 

 主よ。あなたの愛は、火の炎、すさまじい炎です。あなたの愛は、何によっても消すことができず、押し流すこともできません。
 どうかあなたの愛の激しい炎によって、私たちを、暗やみを力強く照らし出す、「燃え続ける炎」としてください。

 

 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
 イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。
 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。イザヤ43:1-3

 

 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。イザヤ62:1