いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「キリストの土台」に堅く立ち、「ちりや灰にすぎない者」として地上で闘い抜く

 

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は形がなく、何もなかった。
 やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1-2

 

 初めに神は、天と地を「創造」されました。
 「創造」とは、英語では「create」であり、神が、「具体的な形のないもの」を、頭の中でイメージされ、心に思い描かれたことを示しています。
 それゆえ、2節にある通り、地には、まだ具体的な「形(form)」がなく、何もありませんでした。

 

 神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。
 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。
 
 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。創世記1:6-10

 

 こうして第三日に神は、「かわいた所」が、「形」となって具体的に現われるように、お命じになり、そこが「地」と名付けられました。
 「地」とは、基本的に、「水のない所」です。
 「地」は、天とは、はっきりと区別された「かわいた所」でした。

 

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。創世記2:7-8

 

 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」創世記2:15-18

 

 人の本質は、「霊」ですが、「人のからだ」は、「土地のちり」です。
 「土地のちり」から「人のからだ」を形造られたのは、神である主です。
 神である主が、「土地のちり」である人を、「ふさわしい場所」に置かれ、そこを耕させ、そこを守らせました。
 さらに、神である主は、「ふさわしい助け手」をもお造りくださり、人の前に連れて来られました。

 

 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」創世記3:17-19

 

 すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。伝道者の書3:20

 

 「土地」は、かつて人のために豊かな産物を生じていましたが、「助け手」に聞き従い、神である主に背いたため、のろわれてしまいました。
 そして、「土地のちりから造られた人」もまた、のろわれた者となり、「ちりからできた肉のからだ」は「死ぬもの」となり、「ちり」の姿に帰らなければならなくなりました。

 

 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。伝道者の書12:7

 

 私たちの「地上のいのち」とは、「人の霊」を宿した媒体である「肉のからだのいのち」です。
 「人の霊(また、たましい)のいのち」には、終わりがありません。永遠の滅びか、永遠のいのちか、いずれかです。
 主イエス様は、この二つのいのちを、「自分のいのち」、「まことのいのち」と教えられました。

 

 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイ10:39

 

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。マタイ16:24-26

 

 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」マタイ20:28

 

 私たちの「地上のいのち」とは、「肉のからだのいのち」であり、「土地のちり」です。
 これは、やがて滅びる、一時的な、限界付きの空しいいのちです。
 私たちは、まず、神である主様の御前に、「ちりの立場にある」ことを、覚えなければなりません。

 

 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」詩篇90:3

 

 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。
 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。詩篇104:29-30

 

 地上での私たちが、「ちりに過ぎない」ことを真に知らなければ、主様のために真に喜ばれる者、役立つ者となることはないでしょう。
 これが、「主を畏れる」ということです。

 

 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。ヨブ42:5-6

 

 ヨブは、多くの試練を通して、初めて、自分が「ちりや灰にすぎない」ことを悟り、そのような者をもあわれんでくださる神である主の偉大さを見ました。

 

 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。創世記18:27

 

 アブラハムは、自分が「ちりや灰にすぎない」ことを、悟っていました。
 しかし、その「無力感」、「空虚感」は、アブラハムに絶望をもたらしませんでした。

 

 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。詩篇103:13-14

 

 それはアブラハムが、神である主は、「ちり」にさえも心を留めておられるほどに、あわれみ深く、情け深い、偉大な御方であることを、よく知っていたからではないでしょうか。
 それゆえ、「ちりや灰にすぎない」ことを悟ったアブラハムは、かえって大胆に、主様の御前に近づくことができました。
 私たちも、自分たちの「地上のいのち」は、「ちりや灰にすぎないもの」であることを、さらに深く悟ることができますように。

 

 さて、「アダムの違反」のゆえに、「土地」はのろわれたものとなり、「サタンの支配する場所」となりました。

 

 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。創世記3:14

 

 蛇はかつて、立つことができたのかもしれませんが、人に、「神である主への反逆」をそそのかすサタンとして働いた結果、腹ばいで歩く生き物、「ちり」を食べるものとされました。
 今や、「のろわれた土地」は、サタンの牙城となりました。
 のろわれた者、サタンを象徴する蛇は、「土地」に、最も密接に、「地」にへばりついて生きています。
 「地」とは、天から最も遠い場所です。

 

 私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています。詩篇44:25

 

 天に国籍を持つ私たちクリスチャンも、この「地上」で、「地上のいのち」の限り、闘わなければなりません。
 いったい何と闘うのでしょうか。
 かつて旧約の聖徒たちは、「相続地を占領する」ために、戦いに出て行きました。
 それは、「のろわれた土地」を、のろいから解放し、「神によって贖われた土地」に回復するため、「きよめられた土地」に造り変えるためだったのではないでしょうか。

 

 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。イザヤ59:1-2

 

 かつて私たちは、神に反逆し、神から遠く離れて生きていました。サタンの牙城である「地」に這いつくばって生きていました。
 それは、「私たちの罪、咎」が、私たちと、私たちの神との間に立ちはだかる「仕切り」となっていたからでした。

 

 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。マタイ27:50-51

 

 私たちの救い主イエス様は、父なる神様と私たちの間に立ちはだかっていた「罪の仕切り」を負われた上で、その「地上のからだ」を死に明け渡され、「罪の仕切り」を真っ二つに裂いてくださいました。
 ハレルヤ。私たちと神様の間の、決して取り除くことのできなかった「罪の仕切り」は、完全に取り払われました。
 今や、神の選民イスラエルと、神とは無縁であった異邦人との間の「仕切り」さえも、取り除かれました。

 

 以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
 このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。エペソ2:13-16

 

 今や、「私たちの霊」は、キリストにあって、神と一つであり、すべての神の民と一つです。
 しかし、私たちの「肉のからだ」は、今なお、「地上」に置かれています。
 そして、私たちの「肉のからだ」は、否応なく、「地上」に、はりついています。

 

 だから、神である主は、こう仰せられる。
 「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。イザヤ28:16

 

 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。エペソ2:20

 

 それゆえ、主イエス様は、「地上」にいる私たちのために、「のろわれた地」に象徴される「サタン」と、「私たちクリスチャン」との間の「新しい仕切り」、「聖め別かつ仕切り」となってくださいました。
 主イエス様は、「私たちクリスチャン」と、「のろわれた地」との間の、「完全な仕切り」となる「礎」また「土台」となってくださいました。
 
 「土台」とは、文字通り、しっかりと「土地」に密着した「台」です。「土台」の存在によって、「台」の上に置かれたものは何であれ、「地」から、まったく切り離されています。
 「土台」となられた主イエス様は、おひとりで、身を捨てて、「のろわれた土地」の上の「仕切り」、「壁」となり、私たちの罪の報酬である「のろい」と「死」を、すべてご自身の身に引き受けてくださいました。
 
 「キリストの土台」は、私たちにとっては、いわば、のろいと死からの「絶縁体」です。
 「キリストの土台」の上に、しっかりと乗せられた私たちクリスチャンは、「のろい」と「死」の源である「サタン」から、完全に切り離され、安全です。
 私たちは、この「土台」となられた主イエス様に感謝しましょう。
 決して、この「キリストの土台」から、愚かさゆえに、自ら道を踏み外して、「肉のからだ」の独り歩きに身を任せてしまうことがありませんように。

 

 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
 それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
 
 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。コロサイ1:21-23

 

 私たちは、「キリストの土台」の尊さを、さらに深く覚え、ここに置かれた使命を覚えましょう。

 

 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
 
 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
 
 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」ルカ6:46-49

 

 私たちはひとりひとり、「キリストの土台」の上に置かれた使命を持っています。
 建物には、様々な部分があり、建物の建造には、様々な働きがあります。みなが、「柱を立てる」のではありません。
 ひとりひとり、主様の御前に、自分の召しと役割を尋ね求め、与えられた役割に従って、「ちりや灰に過ぎない者」として、その小さな働きに感謝してあずかりましょう。

 

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。
 しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。Ⅰコリント3:10-13

 

 もし私たちが、初めから、「ちりや灰にすぎない者」であることをわきまえて、謙遜かつ慎重に建てるならば、火によって、真価を試されるときにも、もうそれ以上、何も焼け尽きてしまうことはないでしょう。

 

 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。
 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:9-10

 

 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。ガラテヤ6:14-17

 

 罪によって汚れた私たちの「肉のからだ」が、やがて滅びるように、「のろわれた地」も、やがて滅びます。
 私たちを滅びから贖い出すために、「土台」の立場にまで、へりくだられたキリストは、やがて万物をご自身の足の下に従わせられるのです。
 その日には、私たちは、キリストにあって、完全に勝利するのです。
 この地にあっては、「地上のいのち」の限り、「キリストの土台」に堅く立ち、「ちりや灰に過ぎない者」として、主様のみことばを実行し、主様とともに闘い抜きましょう。

 

 「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」
 
 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
 
 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。ヘブル2:6-10