いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

目には見えない「キリストのからだ(なる教会)」を現わす

 

 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒2:1-4

 

 神である主は、「霊である神ご自身」を「現わすための媒体」として、「御子のからだ」をお造りになりました。
 神の御子は、初めから「聖霊によって身重に(マタイ1:18)」になりました。
 そして、公けの働きを始められる前、神の御子は、へりくだってバプテスマをもお受けになりました。そのとき、「御子のからだ」には、改めて、「神の御霊」が下りました。
 
 また、神である主は、「見えない人の霊」を「現わすための媒体」として、土地のちりで「アダムのからだ」をお造りになりました。
 そして、神である主が、「アダムのからだ」に、「人の霊」を吹き込むと、そのからだは「いのち」となりました。
 
 神である主は、「からだ」をお造りになり、そこに「本質である霊」を吹き込み、「いのち」を得させます。

 

 キリストのからだとは、教会のことです。コロサイ1:24

 

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23

 

 「キリストのからだ(なる教会)」は、五旬節(ペンテコステ)の日に、神によって造られた、という学びをお聞きしました。
 そして、その「キリストのからだ(なる教会)」に、「聖霊」が注がれました。
 この学びは、実に興味深いものでした。

 

 私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。Ⅰコリント12:12-13

 

 神である主は、いつも「見えない霊」を現わすために、「目に見えるからだ」をお造りになりました。
 しかし、すべてのクリスチャンを包括した、神の奥義である「キリストのからだ(なる教会)」は、「目に見える媒体」ではあません。
 
 私たちクリスチャンは、「キリストのからだ(なる教会)」を、ただキリストの御血によって開かれた「霊の目」によって、信仰によって、見ることができます。
 しかし、未信者は、神の奥義である「キリストのからだ(なる教会)」を見ることができません。

 

 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
 そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 
 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
 それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。ヨハネ17:17-23

 

 神の奥義である「キリストのからだ(なる教会)」、すなわち過去・現在・未来のすべてのクリスチャンを包含した「一つのからだ」は、確かに存在しています。
 父なる神様が、子なるイエス・キリスト、聖霊の三つで一つの、「三位一体の神」であられるように、神のみこころは、大勢いる私たちクリスチャンが「一つであること」です。
 「一つ」とは、「平和」であり、「一致」であり、「調和」です。

 

 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。エペソ4:4-6

 

 私たちクリスチャンは、すでに「一つのからだ」とされています。
 私たちが、真理のみことばを、信仰によって素直に受け入れ、自分自身を真理によって聖め別つなら、私たちは、この世の対して、「一つのからだ」を現わすようになります。
 これが目に見えない「キリストのからだ(なる教会)」を、ビジュアル化することです。
 
 父なる神様が、「媒体としてのからだ」をお造りになられた目的は、「本質である霊」を「明らかに現わす」ためです。
 私たちクリスチャンが、「キリストのからだ(なる教会)」に加えられた目的は、私たちが、「その本質である神の御霊」を、この世に対して、はっきりと知らせるためです。
 では、「神(の御霊)の本質」とは、何でしょうか。

 

 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主です。使徒17:24

 

 神は、「天地の主」です。
 私たちは、神である主の「みことばに従う」ことにより、また、「御霊に従う」ことによって、このお方こそ、「天地の主」であることを、明らかに現わすことができます。

 

 神は愛です。Ⅰヨハネ4:16

 

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:34-35

 

 神のご本質は、愛です。
 私たちは、神の愛を知らされた者として、同じ父なる神様によって生まれた兄弟姉妹を愛します。
 「互いに愛し合うこと」こそ、「一つのからだ」を明らかに現わすことであり、同時に、神のご本質である「愛」を知らせることです。
 
 私は3年ほど前、職業訓練校の授業で、現在のブログの前身であるホームページを立ち上げました。
 最初に書いた記事は、「一人の姉妹から受けた愛」の証しでした。
 この姉妹は、私が訓練校に通った三ヵ月間、毎週水曜日夜の「祈り会・聖書学び会」の前に、夕食に招いて、温かい愛を示し続けてくださいました。小学生の子どもたちを育てながら、片頭痛持ちの姉妹が、人を招いて、夕食のおもてなしを続けることは、察するに余りある労苦だったことでしょう。
 訓練校の友人たちは、その姉妹が示し続けてくださった「この世にはない愛」を知り、本当に羨ましそうでした。
 それは確かに、目には見えない「一つのからだ」を現わし、「神の愛」を明らかに示す、本当に素晴らしい証しとなりました。

 

 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。ヨハネ17:14

 

 私たちクリスチャンと未信者を分け隔てる、大きな違いの一つは、「真理のみことばを持っている」か否かです。
 
 「真理のみことばを持っていない者」の主要な特徴は、「憎しみ」と「偽り」と「死」です。
 
 「真理のみことばを持っている者」の主要な特徴は、「愛」と「真理」と「いのち」です。

 

 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。
 彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。ヨハネ8:44

 

 「『人殺しである悪魔』から出た者」は、「自分の欲望」を成し遂げたいと願い、「自己実現」のために、真理に「逆らい」、「偽り」を語ります。
 
 「『いのちを与える神』から出た者」は、「神のみこころ」を成し遂げたいと願い、「神のご栄光を現わす」ために、真理に「従い」、「真理」を語ります。真理とは、イエス・キリストです(ヨハネ14:6)。

 

 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。Ⅰヨハネ3:15

 

 「人殺し」とは、「憎む者」です。
 「媒体であるからだ」が殺人に着手していなくても、人を憎むならば、「本質である霊」は、すでに殺人を犯したのです。

 

 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。Ⅰヨハネ2:9-11

 

 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。
 愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。Ⅰヨハネ3:15

 

 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。Ⅰヨハネ4:20

 

 ヨハネは、第一の手紙の中で、「兄弟を憎むこと」を徹底的に戒めました。
 兄弟を憎む者は、やみの中、死のうちにとどまっている、人殺し、また、偽り者です。
 「人殺しである悪魔」は、神の子どもたちが、互いに愛し合うことによって、神のご栄光を現わすことを、全力で妨げようとしています。そして、兄弟姉妹が憎み合うように、日夜、巧妙に働き続けています。
 
 私たちは今、互いに心から愛し合っているでしょうか。
 私たちは、それぞれ異なる性質を持ち、異なる嗜好を持ち、異なる環境で育ちました。肉にあっては、ほとんど何の接点もない者同士が、理解し合い、互いに愛し合うことは、そもそも無理難題です。
 私たちは、歯を食いしばって、愛し合うべきなのでしょうか。

 

 憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。箴言26:26

 

 神である主は、兄弟姉妹が表面的に愛し合うことを望んでおられません。うわべではなく、「本質である霊」が、互いに愛し合うことを願っておられます。
 ヨハネは、「憎しみ」を誘発する一つの原因を見出しました。

 

 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。
 しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。Ⅰヨハネ2:15-17

 

 「憎しみ」を引き起こす大きな要因は、「欲」ではないでしょうか。

 

 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。出エジプト記20:17

 

 どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。ルカ12:15

 

 「自分の持っていないもの」を隣人が持っている。「隣人の持っているもの」が欲しい。これが「欲」でしょう。
 あれも欲しい。これも欲しい。これが「貪欲」です。
 旧約の時代から、「欲」にかられた人々は、いつも失敗しました。
 
 しかし、冷静に考えれば、私たちはみな、「隣人が持っていないもの」を、必ず持っています。

 

 みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。Ⅰコリント12:7

 

 同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。Ⅰコリント12:11

 

 神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。Ⅰコリント12:18

 

 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。Ⅰコリント12:27

 

 父なる神様は、神の知恵と、愛をもって、「ひとりひとり」、「おのおのに」、「それぞれ」、御霊の賜物を分け与えてくださっています。
 それと同じように、父なる神様は、ひとりひとりに異なる環境や境遇、また身体的・頭脳的・感性的な特質を与えておられます。
 「私の持っているもの」は、もしかすると、この世の価値観からすれば、喜ばしくないものかもしれません。
 ある人には、生まれながらに「障害」が与えられているかもしれません。

 

 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。ヨハネ9:2-3

 

 しかし、すべて私たちに与えられているものは、神のご栄光が現わされるための「神の賜物」です。
 私たちには、それぞれ負うべき重荷があり、異なる役割が期待されています。
 私たちに必要なものは、それぞれ異なるので、隣人と持っているものを比べることは、無意味です。

 

 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。
 私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。Ⅱコリント10:12-13

 

 与えられていないものは、「今の私」には必要のないものでしょう。
 もし必要だと感じるならば、隣人のものを欲しがってねたんだり、憎んだりするのではなく、父なる神様に求めましょう。
 父なる神様は、「私の心」を求めて、「私」をご自身のもとに引き寄せるために、「私に飢え渇きを起こさせている」のかもしれません。

 

 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。
 しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:31-33

 

 賢い父は、誰に何が必要で、誰に何を与えるべきかを、すべてご存じです。
 「人の本質」は「霊」です。
 父なる神様が、私たちに、「それぞれの霊」を創造されました。
 「それぞれの霊」は、「それぞれの目的」に従って、創造されました。
 そして、父なる神様は、「それぞれの霊の目的」にふさわしい「からだ」を造ってくださいました。
 
 私たちは、それぞれ「自分の霊の目的」、すなわち「自分の召し」を、わきまえる必要があります。
 私たちは、「自分の召し」に従って、それにふさわしい賜物が与えられています。今、与えられていなくても、将来、与えられるかも知れません。
 
 私は以前、「クリスチャンは全員、パウロのようになるべきだ。」と考えていました。そして、パウロを目指していないように見える兄弟姉妹に苛立っていました。

 

 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。Ⅰコリント12:29-30

 

 しかし、私たちは、「キリストのからだ(なる教会)」の一器官なのです。全員がパウロでなくても良いのです。
 「キリストのからだ(なる教会)」は、私にとって福音でした。
 私は、自分ひとりでパーフェクトである必要がありません。「自分の持っていないもの」は、兄弟姉妹の誰かが持っています。私はその兄弟姉妹の助けを借りれば良いのです。
 「キリストのからだ(なる教会)」は、実に便利にできています。
 私たちは、悪魔の誘惑に惑わされることなく、「キリストのからだ(なる教会)」を喜び、「一つのからだ」を愛し、「キリストのからだ」に安息しましょう。

 

 私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
 
 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
―この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。―
 
 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
 
 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
 
 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
 
 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。エペソ4:7

 

 私たちはそれぞれ、「キリストのからだ(なる教会)」を建て上げるために、「自分の召し」が何であるかをわきまえ、一器官としての役割を、それにふさわしく忠実に果たしていくことができれば幸いです。
 私たちが本当にキリストに従いたいと願うならば、父なる神様は必ず、「自分の召し」を明らかにしてくださるでしょう。

 
 私たちは、うわべのことだけを見て、「この人は、よく仕えている。」とか、「あの人は、充分に働いていない。」などと安直に判断しがちです。
 しかし、そもそも「召し」が異なるのであり、「与えられている賜物」が違うのです。
 
 「この人は、よく仕えている。」と思われる兄弟が、与えられた賜物の量りに従って見ると、神の御目には目方不足であるかもしれませんし、「あの人は充分に働いていない。」と感じられていた姉妹が、かえって与えられた賜物の量りからすると、神からは「あなたは忍耐して、よく働いた。」と喜ばれているかもしれません。

 
 私たちには、それぞれ「自分の召し」があります。「他の人の召し」は、わからないことが多いでしょうし、わからなくてもよいのです。私たちは誰も、裁判官ではないのですから。
 
 私たちはひとりひとり、ただ「自分の召し」について、はっきりし、与えられた役割に忠実に歩みましょう。
 私たちが、「キリストのからだ(なる教会)」を愛し、「かしらなるキリスト」によって命じられた「自分の召し」に忠実であるならば、「一つのからだ」は豊かに現わされます。
 
 さらに私たちは、「キリストのからだ(なる教会)」を建て上げていくために、みことばの約束によって、さらに多くの賜物を願い求めることができます。
 しかし、多くの賜物を求める者は、それなりの覚悟が必要です。

 

 すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。ルカ12:48

 

 それでも私たちは、多くの賜物を願い求めるべきでしょうか。
 願い求める意志はあるでしょうか。

 

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。ヨハネ14:12-13

 

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。ヨハネ15:7-8

 

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16

 

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。
 求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネ16:23-24

 

 主イエス様は、「わたしの名によって求めなさい」と、繰り返し、繰り返し、命じておられます。
 それは、私たちが多くの実を結び、父なる神様が栄光をお受けになるためです。
 そして、私たちの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

 

 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。
 しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。Ⅰコリント15:9-10

 

 自分は多く赦された者と考え、多くの賜物を与えられたパウロは、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。
 しかし、パウロはそれを「苦しみ」とは考えず、「私にある神の恵み」だと書きました。
 「勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し(Ⅱテモテ4:7)」たパウロが、晩年、テモテに託した願いは、福音のために、キリストのために、「私と苦しみをともにしてください」ということでした。

 

 神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。
 この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
 
 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。
 しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。Ⅱテモテ1:8-12

 

 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。Ⅱテモテ2:3

 

 これは、まさに主イエス・キリストの願いでしょう。
 私たちは、父なる神様に、どんな賜物を願い求めるべきでしょうか。
 それはただ、私たちの自由意志に委ねられています。

 

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。ヘブル2:9-10