いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「からだ」という媒体に、本質である「いのちの霊」を吹き込まれる神

 

 

 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。
 「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
 そこでわたしは言いました。
 『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」ヘブル10:5-7

 

 父なる神様は、御子のために、「からだ」を造ってくださいました。
 
 御子は、「わたしと父とは一つです。(ヨハネ10:30)」と語られたとおり、三位一体の神ご自身です。「神は霊です(ヨハネ4:24)」から、御子は本来、私たちが目で見ることのできないお方です。
 しかし、父なる神様は、私たち罪人に、ご自身を現わすことをよしとされ、御子のために、「からだ」を造ってくださいました。

 

 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。コロサイ1:15

 

 父なる神様は、「目に見える御子」を通して、私たちに「神ご自身のご本質」を、明らかに示してくださいました。

 

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。ヘブル1:3

 

 「神のご本質」は、「その霊」にあります。
 「神(の霊)」は、私たち人間に見えようと見えまいと、永遠から永遠まで「わたしはあるという方(出エジプト3:14)」です。
 しかし、心の鈍い私たちに、「見えないもの」を、「明らかに」伝えるためには、何らかの「目に見える媒体」が必要になります。
 そこで、父なる神様は、私たちのために、「御子のからだ」という「目に見える媒体」をお用いになりました。

 

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。創世記1:26-27

 

 私たち人間は、「神のかたち」に造られました。
 日本語で「かたち」と聞くと、「具体的に目に見える形」を描きやすいのですが、英語では「image」と表現されているように、「心に描く、想像する」という意味です。
 「神のかたち」とは、「霊である神のかたち」、すなわち「霊」でしょう。
 
 私たち人間も、神と同じように、「本質」は、「その霊」にあります。
 創世記の1章27節で、神が「人をご自身のかたちに創造された」とき、神は「人の霊」を創造されたのではないでしょうか。
 このとき、人のためには、まだ、「目に見えるからだ」は、造られていなかったでしょう。

 

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。創世記2:7-8

 

 その後、神である主は、人のために、「からだ」を造ってくださいました。
 そして、「そのからだ」に、「いのちの息」、すなわち、すでに創造されていた「人の霊」を吹き込まれたのではないでしょうか。
 それまでは目に見えなかった「人の霊」は、「からだという媒体」をいただき、見える姿になりました。

 

 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。伝道者の書12:7

 

 私たちの「からだ」は、「土地のちり」で造られています。それは、神様の測り知れないご計画のあんばいによって用いられた「媒体」に過ぎません。
 私たち人間の「本質」は、「その霊」にあります。
 
 「媒体」は、「本質を現わすために」、あくまでも便宜上、一時的に採用されたものに過ぎず、やがて滅びます。
 「土地のちりであるからだ」には、「いのち」はありません。
 「土地のちりであるからだ」に、「本質である人の霊」が吹き込まれたとき、「その媒体」は「いのち」を得ました。

 

 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。ヨブ34:14-15

 

 神である主が、再び、「本質である人の霊」を集められると、人は息絶え、「媒体」はちりに帰ります。 
 しかし、「本質である人の霊」は、永遠に存在し続けます。

 

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。ヨハネ19:30
 
 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」使徒7:59

 

 「媒体」と「本質」のどちらが重要でしょうか。
 言うまでもなく、「本質」が大切です。
 
 私たちは、「媒体」と「本質」のどちらに、より多く、心を留めているでしょうか。
 私たちが人と出会うとき、私たちは「媒体であるからだ」を見ているでしょうか。それとも、「本質である霊」を見ているでしょうか。

 

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

 

 さて、父なる神様は、霊であるご自身を現わすために、「御子のからだ」という「媒体」だけでなく、「みことば」という「媒体」をも、お用いになりました。

 

 ことばは神であった。ヨハネ1:1

 

 「ことば」もまた、人にとって非常にわかりやすい、明らかな「媒体」です。
 しかし、「媒体としてのことば」とは、「単なる文字」です。文字そのものには、「いのち」はありません。
 「ことばの本質」は、「その霊」です。

 

 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネ6:63

 

 「神のみことばの本質」は、「神の霊」です。この「神の霊」が、「文字という媒体」に「いのち」をもたらし、人に「いのち」を与えるのです。
 
 私たちが聖書を読むとき、私たちは「媒体である文字」を読んでいるでしょうか。それとも、「本質である神の霊」を読んでいるでしょうか。
 
 「媒体」とは、あくまでも便宜上の産物に過ぎません。
 何かを表現しようとするなら、「媒体」は必要です。
 「媒体」は、目に見えないものを明らかにし、心の鈍い私たちを助けてくれる大変便利な代物です。
 
 しかし反面、「媒体」は、目に見えるという点で、私たちの心を強力に惹きつけ、心を奪い、ややもすると「本質」を忘れさせてしまう、非常に危険な代物にもなり得ます。
 私たちは「媒体」を見るとき、いつも御霊の助けによって、目には見えない「本質」にこそ心を留めるよう、絶えず祈り求めなければなりません。
 「自分の目」と、「自分の悟り」に頼るとき、私たちは失敗します。

 

 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。ルカ11:34-36

 

 「媒体」そのものには、「いのち」はありません。
 「本質」である「その霊」に、「いのち」があるのです。
 光であられるイエス・キリストの照らしによって、「私たちの霊の目」がいつも、「本質である神の霊」を見続けることができますように。

 

 私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
 
 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。
 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。Ⅰコリント2:12-14

 

 さて、父なる神様が、「御子のからだ」を造られたのは、また、私たちの罪のための贖いの死を、成し遂げるためでもありました。
 「御子のからだ」は、「一度、死ぬために」造られました。

 

 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
 これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。ヘブル2:14-15

 

 「御子のからだ」は、その死によって、死の力を持つ者を滅ぼすための「媒体」としても、用いられました。

 

 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
 それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。コロサイ1:19-22

 

 父なる神様は、「御子のからだ」という「媒体」のうちに、「満ち満ちた神の本質」を宿らせなさいました。
 その上で、「その媒体」の死によって、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」私たちを、父なる神様と和解させてくださいました。

 

 イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」ヨハネ12:23-28

 

 かつて、「神のご本質」を豊かに現わすために用いられた「媒体」は、今や、自ら進んで選び取られた「その死によって」、「神のご栄光」を現わすための「媒体」となりました。
 
 その類まれなる、聖く、気高く、麗しい「媒体」は、「いのち」にあっては、「神のご本質」を表現し、「死」にあっては、「神のご栄光」を現わされました。

 

 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。Ⅰコリント6:19-20

 

 「私たちのからだ」は、かつて、罪を現わす汚れ果てた媒体でした。
 しかし、「罪のための媒体」は、キリストとともに葬られました。

 

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Ⅱコリント5:17

 

 「私たちのからだ」は、今や、イエス・キリストの尊い御死を通し、恵みによって、新しく造り替えられた、「神から受けた聖霊の宮」となりました。
 私たちの「本質である霊」は、「聖霊」と「一つ霊(Ⅰコリント6:17)」となりました。
 「私たちの新しいからだ」は、「聖霊のための媒体」、「神のための媒体」となりました。

 

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1

 

 父なる神様。あなたが私たちのためにご計画してくださったことは、あまりにも深く、悟ることができません。
 けれども、私たちは愛によって、信仰によって、あなたに従い続けることを望みます。
 私たちは、本当に小さく、はかない媒体ですが、どうかあなたが、ご謙遜と、ご忍耐と、あわれみの限りを尽くしてくださり、私たちのからだを、イエス・キリストのうちに、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として、お受け取りくださいますように。

 

 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。ピリピ1:20-21