いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「遣わした方のみこころを行なう」という、まことの食物

 

 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。ヨハネ4:31-34

 

 朝の公園で、聖書の音読と賛美を始めて5カ月になります。
 私はここで、「このみことばの実際」を学ぶ祝福にあずかっています。

 

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。ヨハネ1:14

 

  主イエス様は、「見えない神のことば」の「具体的な表現」です。
 人となられた主イエス様は、その言動、立ち居振る舞いのすべてにおいて、「神のメッセージ」です。

 

 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。ヨハネ6:35

 

 主イエス様は、ご自分の肉体が裂かれることをいとわず、小さくなってくださいました。裂かれて、裂かれて、小さくなられた「いのちのパン」は、私たちにとっても食べやすい食物となりました。
 「主イエス様のみことば」は、私たちの食べ物です。みことばを食べるとは、私たちが「聖書のみことばを読むこと」です。
 そして、「私たちを遣わした方のみこころを行なうこと」もまた、私たちの食べ物です。これは、「聖書のみことばを実行すること」です。

 

 私は、公園に「聖書通読」を主目的に出て行きました。
 すると主イエス様は、聖書のみことばを食べている私のところに、次々と未信者の方々を連れてきてくださいます。
 「万軍の神、主は、誰よりも熱心な伝道者である」ことを、私は知りました。
 
 こうして主様は、幼子の私に、小さな伝道のチャンスを与えてくださいます。
 私はその小さく裂かれた「主イエス様のみわざのパン」を食べます。
 そして、「主イエス様みわざにあずかる」ごとに、これまで自分が気付かなかった様々な至らない点を教えられます。
 これは、聖書のみことばを読んで、頭で理解しているだけでは、決して学ぶことができない「実際的な教え」です。

 主イエス様は、幼子の口に、最初から大きなパン切れや、堅いパンをお与えになることはありません。
 幼子に与えてくださるパン切れは、とても小さく、やわらかくて、おいしいパンです。
 愚かで、常識感覚に乏しい私は、当然のごとく、そのみことばの実行過程で、様々な粗相をしますが、主イエス様は、大きな失敗に至らないように、実に巧みに導き、守ってくださいます。
 主イエス様の恵み、あわれみ、いつくしみは、何と心細やかで、配慮の行き届いたものでしょう。

 

 私はこの生きておられる万軍の神、主の熱心を、お分かちさせていただく幸いを、父なる神様に心から感謝しています。

 万物の創造主なるイエス様は、被造物をまったく自由にお用いになることができます。
 しばしば主様は、「飼い主に連れられている犬」を用いて、私のところに飼い主を連れて来てくださいます。私はこれらの犬を「神のしもべ犬」と呼んでいますが、今のところ4号までいます。

 論理の囚人である「肉の私」は、「論理の通じない犬」が苦手です。できれば、あまり関わりたくない困った存在です。
 なぜこんな犬が好きでない人物のところに、犬が親しく近づいてくるのか、創造主なる神様抜きには理解ができません。

 

 「神のしもべ犬3号」は、白い大型犬です。この犬は、飼い主の男性とともに公園を1周散歩すると、ひとりで私のところにやって来て、背筋をピンと伸ばした見事なたたずまいで、座しました。
 「ご主人さま、何かご用でしょうか。」とでも言いたげな、ほれぼれするほど美しく、凛々しいその姿には、「これぞ神のしもべの模範!」と感動を覚えました。

 後からやってきた飼い主さんに、「実に礼儀正しい犬ですね。」と声をおかけして、会話が始まると、私は伝道用の月刊小冊子をお渡ししながら、クリスチャンであることをお伝えしました。
 すると、この方は、仏壇販売チェーン店で長らく営業をされた定年退職者でした。
 誠実な人柄の伝わるこのお方は、多くのお寺や檀家さんの信頼を獲得され、一般人では知ることのできないお寺の内部事情も、否応なく垣間見てこられたようです。
 その挙句に、このお方が得られた結論は、「宗教はとても信じる気持ちになれない。」でした。
 お坊さんの言っていることは立派だけれど、その普段の言動、とりわけ営業マンとして接待する夜のお坊さんの姿は…、とこぼしておられました。

 

 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。
 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。
 けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。マタイ23:1-8

 

 人々は、「信仰者の教え」に心を留めるばかりではなく、「信仰者の普段の生き様」も注意深く観察しています。
 もし、信仰者の生き方が、「その教え」の正しさ、確かさの証明になっていなければ、当然、「その教え」は疑わしいものとなります。
 「その教え」が、真実なものであれば、当然、その信仰者の身において、「その教え」が成就されてしかるべきです。
 もし実際に、「その教えを忠実に守り、行っている信仰者」がおられるなら、その人は間違いなく、百万言を語るよりも、雄弁な伝道者になります。
 これは、私たちクリスチャンにとっても、厳しい戒めです。

 

 信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。ヤコブ2:17

 

 このお方は、その他、仏教界の様々なしきたりや慣習に、疑問や不審感を抱いたことを語られました。
 そして、その結論は、「だから、宗教は信じる気持ちになれない。」となっており、ここに論理の飛躍があります。

 私は、ときどき合いの手を入れつつ、30分ほどお話に耳を傾けていましたが、一段落ついたところで、ようやく口火を切ることができました。
 ところが、「仏教では、…」と私が語り始めた瞬間、あろうことか、それまではおとなしくそばに居続けてくれたあの犬が、突然、立ち去ってしまいました。
 「ゲームオーバー」です。
 実に厳粛な、主様のお取扱いです。

 ひとり残された私は、主様の御前にひれ伏しました。
 そして、私は二つのことを教えられました。

 一つは、私たちは、決して「仏教(他の宗教)批判に、乗じてはならない」ということです。
 他の宗教に、どのような欠点があったとしても、私たちクリスチャンにも、様々な欠点があるのです。
 もちろん、生けるまことの神様には何の欠点もありませんし、「人間が作った宗教」と、「神のみことば」は、根本的に異なるものですが、聖書の正しさは、「人間が作った宗教の欠点を指摘する」という方法で、立証すべきものではなく、また、できません。
 批判するのは、実にたやすいことです。しかし、「他の宗教批判」は、聖書の正しさと何の関係もありません。
 「批判」は、決して人の心に、いのちも平和も与えることはできません。むしろ私たちの品性が疑われるのが落ちでしょう。

 もう一つは、私たちクリスチャンは、ただ「よみがえられた主イエス・キリストを宣べ伝える」べきであって、仏教(他の宗教)については、基本的に語るべきではないということです。
 私たちは、仏教について、ある程度の知識を持っているかもしれませんが、この世の人々は、仏教に関して、さらに深い造詣を持っておられるかもしれません。
 私たちが生半可な知識で仏教について語るならば、「よく知りもしないで、いい加減なことを語る信用に値しない人」と思われ、イエス・キリストの福音まで軽んじられてしまう危険性すらあります。

 私たちは、この世のことにおいては、この世の人々に何もまさってはいません。
 私たちはただ、イエス・キリストに贖われ、真理の御霊を与えられた者として、イエス・キリストにある真理についてだけ、この世の人々にまさっています。
 私たちは、この「よみがえられた主イエス・キリストを宣べ伝える」ために、召し出された者たちです。

 

 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。イザヤ46:5

 

 私たちの神、主は、比べるべきもののない唯一まことの神、万物の創造主であられます。私たちはこのお方の偉大さだけを見続け、宣べ伝えましょう。

 

 さて、「神のしもべ犬1号」は、黒い大型犬です。二本の後ろ足が萎えていますが、飼い主に尻尾を持ちあげられながら、二本の前足で私のところに飼い主を連れて来て、私の横で、しっかりと踏ん張って立ち止まってくれました。
 それ以来、この犬は、順番に、ご家族全員を連れて来てくれ、ほぼ毎日、忠実に私のところに通って来てくれます。
 今では、特注の車いすが届き、飼い主がそれに乗せてやると、飼い主を自動車のところに置き去りにしたまま、ひとりで私のところまで歩いて来てくれます。

 不思議なことに、この犬は、どんなに犬好きで、何度も顔を合せている人でも、近づくと吠えますが、私に対しては、滅多に吠えることがありません。
 飼い主のご家族は、この犬の性質をよく知っているので、「なぜこの人には吠えないのだろう」と不思議に思い、私のそばで、くつろいで寝そべる「神のしもべ犬の保証」によって、私はこのご家族の信頼を、実に容易に得ることができました。

 問題なのは、この犬の忠実さに、私が充分に応えきれていないことです。
 飼い主の娘さんは、毎日のように、犬とともに来てくださいますが、ややもすると、「単なるお友達の会話」に流されてしまいます。
 ここでの課題は、「私たちクリスチャンは、決して『世の友』となってはならない」ということです。
 友が増えることは、人の喜びですが、伝道するたびに「世の友」となるなら、私たちは友だちづきあいのために、貴重な主様の時間を、際限なく浪費してしまう結果になりかねません。
 私たちは、「友」として、自分自身を推薦するのではなく、「罪人たちの永遠の友となってくださる主イエス様」をご紹介することに、しっかりと焦点を絞らなければなりません。

 「主イエス様をご紹介すること」は、ただ祈りによります。祈りによらなければ、会話の流れを支配することは決してできません。
 しかし、本気で祈るならば、主様は確実に答えてくださいます。
 なぜなら、主イエス様こそ、最もそれを望んでおられる伝道者なのですから。

 先日、嬉しい知らせをお聞きしました。
 この犬の誕生日は、私の新生の日と、ほぼ同じで、9歳を迎えました。
 この犬が初めて来てくれた6月には、肺にできてしまった腫瘍が毎月1センチのペースで拡大しており、余命は半年と診断されていました。それでも、高価なオーダーメイドの車いすを発注された飼い主さんの愛に、私は感動を覚えたものです。
 ところが、最近、病院に行くと、なんと腫瘍の拡大が止まっているとのこと。
 主様は、この忠実な神のしもべ犬をいつくしみ、飼い主さんご家族を愛して、その救いを願っておられることを覚え、心から感謝しました。
 主様のあわれみは、足りないしもべの働きを補ってくださるとともに、忍耐深く、しもべを養ってくださいます。

 

 わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。ヨハネ4:34

 

 私はこうして、朝の公園で、聖書のみことばを食し、主イエス様のみわざを食する幸いにあずかり、日々、主様の養いに浴しています。
 主イエス様は、幼子に対して、実に甘く、優しく、ご親切でいらっしゃいます。この主様の養いの心地よさ、素晴らしさの模範を味わうとき、私はただただ涙のこぼれるばかりです。
 「どうしてそこまで、この愚かなしもべを甘やかすのだろう…。」と私は、いぶかしくさえ思います。「人は甘やかせば、つけ上がる」というのが、私のセオリーだからです。
 しかし私は、傲慢になったときの主様の懲らしめが、どれほど厳しいものであるかも、ある程度、身にしみて叩き込まれてきたので、自分の心を見張ることには、少し敏感になりました。
 これが、「主を畏れることを学ぶ」ということでしょう。

 

 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。箴言9:10-11

 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。
 主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。箴言14:26-27

 主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。箴言19:23

 

 主を畏れるならば、「いのち」に至り、「いのちの年」は増し、「いのちの泉」が湧き上がります。
 主を畏れるならば、確かに主様は、私たちに限りなく祝福を与え続けてくださいます。
 幼子のうちだけでしょうか。いいえ、これは聖書に書かれている真実な神のみことばです。

 私は、この神の愛、主イエス様の恵みに、何としてもお応えしたいと願います。
 そのために私のなすべきことは何でしょうか。

 

 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ6:28-29

 

 私たちは今よりもっと、主イエス様に信頼し、主イエス様に従い、ついて行きましょう。
 私たちはさらに大胆に、主イエス様に信頼し、このお方の御名を呼び求めましょう。
 主イエス様は、私たちがさらに力強く、主様の御名を呼び求めることを、切実に待っておられます。

 

 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。エレミヤ33:3

 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。詩篇2:8

 わたしを求めて生きよ。アモス5:4

 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。エレミヤ29:12-13