いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

キリストの愛にのみ基礎を置き、「最後の敵である死」と闘う

 

 

 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。Ⅰコリント9:26

 

 私たちクリスチャンは、いったい「決勝点がどこなのか」、本当にわかっているのでしょうか。

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 

 私は「決勝点がどこか」、根本的にわかっていませんでした。
 情けないことに、私は自分が何をしているのか、本当にわからない者なのです。

 

 主日の早朝、高校時代の親友の訃報がもたらされました。
 夫と、下はまだ中一の子どもたちを残しての早過ぎる病死でした。
 
 彼女は、とても活発、朗らかで、実に頼もしい友でした。
 三年生の時、引っ込み思案に育ち、およそ統率力などないのに、級長にさせられてしまった私は、騒々しいクラスの皆を静めて、伝えなければならないことがあっても、前に立って大声を出す勇気がなく、彼女に頼み込んで、「みんな、静かにして!」と一喝してもらったこともありました。 
 彼女が遠方の短大に進学してからは、年賀状のやり取りが中心でしたが、5年ほど前、「良くなったから話せるんだけれど、ガンで入院していたんだ。心配かけたくないから、みんなには内緒にしておいてね。」とメールで知らせてくれました。
 その後、同級生数名で全快祝いを兼ねて、数十年ぶりに再会しました。

 
 3年前、私が主様に導かれて、出身地に引越して来た時には、ケーキを持って、元気な姿で訪問してくれました。
 
 しかし私は、子どもたちのことや、その他の活動で、相変わらず、忙しく活発にしている様子の彼女に、その後、近況を尋ねることもなく、また年賀状だけのやり取りとなってしまいました。
 
 私は、主様によって出身地に導かれながら、出身地に住んでおられる彼女が、その後、入退院を繰り返して、闘病されていたことなどつゆ知らず、充分な福音を語ることはおろか、親友としての慰めや励ましさえ与えられないまま、彼女を送ってしまいました。

 私は自分の石のような心が、本当に恐ろしくなりました。
 
 訃報を伝えてくれた友も、彼女の幼なじみで、入退院していることは聞いていたものの、電話をかけるといつも、「元気だよ。」と答え、会いたいと伝えると、「もう少し良くなったらね。」と言い続けて、会うことができないままだったと、泣いていました。
 いつも、皆のまとめ役で、明るく、気丈で、人を励まし続けた彼女らしい生き方でした。

 
 私は、クリスチャンである以前に、人としての自分の不甲斐なさに、情けなく、悔しく、言葉もありません。
 いったい私は、何を見ていたのでしょう。
 いったい私は、何を求めていたのでしょう。
 私は、何か、根本的なところから、間違っていたのではないかと、悔い改めさせられています。

 

 最後の敵である死も滅ぼされます。Ⅰコリント15:26

 

 私たちは、「最後の敵である死」と闘っているのだと、ようやく気付かされました。
 今は亡き、内科医の兄弟が、「医者は日々、死と闘っている。しかし、どんなに手を尽くしても、最後は死に持って行かれてしまう。」と語っておられたことを思い出しました。
 私たちは、何と闘っているのかを、はっきりと見極めなければなりません。
 私たちは、「死」と闘っているのです。

 

 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。
 「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
 イエスは涙を流された。ヨハネ11:32-35

 

 このとき、主イエス様は、涙を流されました。
 この聖書箇所について、私は何度も、「これは、彼らの不信仰を嘆いた涙ではない。」と聞かされてきましたが、私には、どうにも納得できず、「彼らの不信仰が情けなくて、泣かれたのではないか。」という思いを払拭できませんでした。

 
 しかし、今回ようやく、主様の涙の意味を悟りました。
 私たちは、「死」の前に、どんなに無力な者でしょう。
 生前、どんなに多くの功績を残したとしても、「死」はすべてを無に帰します。その業績が、たとえ後世の人々の役に立ったとしても、死んでしまったその人自身のためには、何の役にも立たないのです。それは神のさばきの前には、無価値です。
 
 私たち罪人は、決して「死」に勝利することはありません。
 「死」に渡される他ない、罪人たちの無力さに、主イエス様は、心からいたみ悲しまれたのでしょう。

 

 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
 
 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。
 
 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
 そうして私たちに知恵の心を得させてください。詩篇90:3-12

 

 私たちクリスチャンは、今まさに「死」に定められつつある人々に、「より豊かな人生を、もたらすための知識や方法」を宣べ伝えるのではありません。
 私たちクリスチャンは、自分のいのちを一日でも延ばすことのできない人々に、「娯楽まじりの福音」を提供するのではありません。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

 

 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。ヨハネ6:40

 

 私たちは、「永遠を決定する」、「いのち」を宣べ伝えているのです。
 私たちのいのちは、まことに草のようであり、明日をも知れないのです。
 私たちは、「最後の敵である死」と闘っているのです。
 「死」は、すべてを決してしまいます。

 

 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。黙示録1:5-6

 

 キリストは、私たちを愛して、「最後の敵である死」に渡さないために、ご自身の尊い御血を流され、十字架の死にまでも従ってくださいました。
 主イエス様のすべての動機は、私たちに対する限りない愛でした。
 愚かで無力な罪人である私たちに対する、いつくしみ、あわれみ、深い同情心でした。

 

 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
 なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。Ⅰヨハネ4:18-19

 

 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。エペソ3:16-19

 

 主よ。私たちから、石のように冷たい心を取り除き、私たちを、キリストの熱い御血潮によって洗いきよめ、キリストの愛によって、満たしてください。
 私たちが、キリストの愛にのみ基礎を置き、地上での草のように短いいのちの日に、再び後ろを振り返らず、恐れることなく、キリストの十字架の福音を、まっすぐに宣べ伝えて、ひたすら前進し続けることができるように、弱く、力のない私たちを、助け、導いてください。

 

 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。Ⅱテモテ4:5-8