「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」ルカ4:18-19
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1
キリストが、御身を捨てて、地上にお越しくださったのは、罪と汚れの泥沼で、もがき苦しむ私たち罪人を、「救い出し」、「自由を得させる」ためでした。
そして今、キリストの十字架の御苦しみによって、私たちは測り知れない「尊い自由」を与えられました。
私たちクリスチャンは、よくよく注意して、「初めの福音」に堅く立ち、「キリストの御苦しみの実である自由」を、決して何者にも、だまし取られないようにしなければなりません。
イスラエルの神、主は、こう仰せられる。
『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。
七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。
しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。
それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』
それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに―主の御告げ。―剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。エレミヤ34:13-17
しかし、終わりの時代にあって、この世はますます汚れと不法に満ち、「自由」という言葉は、ほとんど「放縦」の意味に、すり替えられようとしています。
こうした時代を深刻に憂うるクリスチャンは、ややもすると責任感から、聖書のみことばを用いて、幼いクリスチャンたちを「拘束しよう」としがちです。
「そこへ行ってはならない。」、「それを行なってはならない。」等々。
しかし、先輩達からのこれらの勧めは、幼いクリスチャンにとっては、まるで「奴隷のくびき」のように聞こえてしまいます。
とりわけクリスチャンホームの子どもたちは、「クリスチャンになると、あれもできない。これもできない。」と考え、なかなかキリストに従う決心がつかないようです。
私は、改めて、「キリストの与えてくださった自由」について、吟味させられています。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。ローマ8:1
「イエス・キリストの贖いを信じた者の自由」とは、もはや決して「罪に定められることがない」という、「永遠の滅びからの自由」です。
私たちクリスチャンは、この先、たとえどのように甚だしい罪を犯したとしても、決して地獄に行くことはないという、恐るべき自由です。
私たちは、この「クリスチャンに与えられた自由の重さ」を、もっと真剣に受け止めるべきではないでしょうか。
「クリスチャンの自由」は、キリストの十字架の御血によって、与えられた「尊い御苦しみの実」です。
それゆえ、「尊い自由を与えられたクリスチャン」には、より重い責任があります。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。ルカ12:48
今や、私たちは「善を行なう自由」も、「悪を行なう自由」もあります。そして、悪を行なっても、決して地獄に行くことはありません。
それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。ローマ6:15-16
しかし、はっきりしていることは、「罪を行なう自由」を選べば、死に至り、「神に従う自由」を選べば、義に至るということです。
私たちは、何を行なっても自由です。
しかし、選んだことについては、必ず、「正しい報い」があり、「選んだ責任」が伴います。
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。ローマ6:20-21
そもそも、「罪を行なう自由」は、罪人である、すべての人間が生まれながらに持っているものです。
「罪を行なう自由」なら、「自分の思いに従う自由」、「キリストに従わない自由」なら、未信者たちでも持っています。
「クリスチャンだけに与えられた自由」とは、「みことばに従う自由」であり、「キリストに従う自由」です。
罪人は、決してこの自由を用いることができません。
「キリストに従う自由」を持たない罪人は、決して「いのち」をみることがありません。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:22-23
私たちクリスチャンは、「罪の奴隷」から解放されました。「汚れと不法の奴隷」から解放されました。「死の奴隷」から解放されました。「律法(善悪のマニュアル)の奴隷」から解放されました。
そして私たちクリスチャンには、新しい生ける道が与えられました。
それは、「神のしもべ」、「義のしもべ」、「新しいいのちに従うしもべ」、「キリストの御霊に従うしもべ」という、素晴らしい特権です。
そこで今、見よ、私はきょう、あなたの手にある鎖を解いてあなたを釈放する。
もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう。
しかし、もし、私といっしょにバビロンへ行くのが気に入らないならやめなさい。
見よ。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行くのによいと思う、気に入った所へ行きなさい。エレミヤ40:4
私たちクリスチャンは、「尊い自由」を与えられました。
私たちには、「選ぶ権利」があり、「選ぶ自由」が与えられています。
誰からも強制されることはありません。
「強制されたから」と言って、他の人のせいにして、責任転嫁することはできません。
たとえ他の人がどう言おうと、私たちは最終的に、自分自身で決断し、選んでいるのです。
「自分で選んだこと」には、必ず、「正しい報い」があります。
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。使徒5:3-5
アナニヤには、「尊い自由」が与えられていました。
アナニヤは、自分に与えられた「尊い自由」を、神を欺くために用いてしまいました。
聖霊を与えられていたアナニヤは、地獄に行くことは決してありませんが、「自分の選んだ行ないの正しい報い」を刈り取りました。
完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。ヤコブ1:25
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。Ⅰペテロ2:16
「尊い自由」を、みことばを実行するために、神の奴隷として用いるならば、その行ないによって、「正しい報い」である「祝福」を受けます。
これが、厳粛な事実です。
私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。ピレモン13-16
このみことばは、キリストの心、そのものではないでしょうか。
キリストは、私たちを愛し、いつもみそばにとどめておきたい、福音のために仕えてもらいたいと願っておられます。
しかし、キリストは、へりくだりの限りを尽くして、私たちに与えられた「尊い自由」を、重んじてくださいます。
それは、私たちが「強制されてしぶしぶ、奴隷のように仕える」ことを悲しまれ、「愛をもって、自発的に、喜んで、自由人として仕えてもらいたい」と願っておられるからです。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。イザヤ58:6
私たちは、幼いクリスチャンに対しても、奴隷のように、何かを強制することがあってはならないと教えられます。
私たちには、何事も強制する権利も、能力もありません。
彼は、愚かさゆえに、ときとして、「尊い自由」を用いて、「自分の思いに従う自由」を選ぶかもしれません。
そんなときでも私たちは、強制するのではなく、知恵を持って、「キリストに従わない自由」が何をもたらすかを、愛をもって、寛容に、教え諭すことができれば幸いです。
彼は、もはや「奴隷」ではなく、「愛する兄弟」なのです。
最近読んだ書物に、「自由」について、とてもわかりやすく適切に表現されていました。
「私が大事なことを決めるという場合、その参考になるかも知れない事実を誰かが知っていたとしたら教えて欲しいと思う。私の代わりに決めてほしいというのではなくて、ただその事実を教えてさえくれればよく、最終的にそれをどう判断するかは任せておいて欲しい―私ならそう思う。そして本当の友人であれば、きっとそうしてくれると思う。(中略)私とは違った結論を下す人がいてもおかしくはないし、事実いた。それはそれでその人の権利であり、その人と神との間の問題である。」 『良心の危機』レイモンド・フランズ著より引用
私たちは、愛する兄弟姉妹に、大切な事実を適切な方法で、伝える責任があります。
しかし、彼らには「選ぶ自由」があることを、真に尊重しなければなりません。
彼らには、私たちと同じ、真理の御霊が与えられているのです。
そして、私たちにもまた、「尊い自由」が与えられています。
分け与えられた御霊の賜物に従って、適切な助言や勧めを行なった後は、祈りつつ、主様にお委ねして、安息しましょう。
「彼らの選択することを支配する責任」を、私たちは神に対して負ってはいません。
私たちは、みな「自由」です。そして、私たちはみな、みことばに示されているとおりの「正しい報い」を刈り取ります。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:31-32
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。Ⅱコリント3:17
愛なるキリストは、私たちクリスチャンに、「完全な自由」を与えてくださいました。
驚くべきことに、クリスチャンにも、なお「みことばにとどまらない自由」が与えられています。
しかし、「キリストのみことばにとどまる自由」、「主の御霊に従う自由」を選択する、「真のキリストの弟子」は、「真理を知る」という「正しい報い」を受けます。
そして、その真理は、「真のキリストの弟子」を、「実際に」、「真に」、「自由」にします。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3:36
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12
父なる神様。あなたは私たちに、キリストの御苦しみを通して、考えられないほどの「尊い自由」をお与えくださいました。
どうか私たちが、この「尊い自由」の価値を、よくよくわきまえることができますように。また、愚かにならないで、賢い者として、「尊い自由」を用いることができますように、「いのち」を選び続けることができますように、絶えず、私たちを助け、お導きください。
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。エペソ5:15-17