いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

真に賢い花嫁として、主を愛する

 

 

 あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。申命記13:3

 

 私たちクリスチャンは、神様のために喜んで、多く、働こうと思います。
 そして、自分の働きぶりを吟味して、「上出来だ。」とか、「かろうじて合格点には達しただろう。」とか、「足りなかった。」とか、主様の御前に出て、報告したり、反省したりします。

 

 彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。Ⅱコリント10:12

 

 しかし、主様はそのような「営業日報」を求めておられるのでしょうか。
 私は主様から、「あなたは今日、わたしのために、どんな働きをしたか。」とか、「あなたは今日の自分の働きぶりついて、どう総括しているのか。」などと、問われた試しがありません。

 

 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ヨハネ21:15

 

 イエスは再び彼に言われた。
 「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ヨハネ21:16

 

 イエスは三度ペテロに言われた。
 「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ヨハネ21:17

 

 主様が私に問われることは、常にただ一つ、「あなたはわたしを愛しますか。」ということだけです。
 主様が最大の関心を払っておられるのは、目に見える「私たちの業績」ではなく、目には見えない「私たちの心」、「私たちが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、神、主を愛しているかどうか」です。

 

 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。ヨハネ14:15

 

 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。ヨハネ14:21

 

 だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。ヨハネ14:23

 

 神を愛するとは、神の命令を守ることです。Ⅰヨハネ5:3

 

 「心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、神、主を愛する」とは、「主イエス・キリストのみことばを守る」ということです。
 私たちの花婿なるキリストは、花嫁に何と言われたのでしょう。

 

 わたしに従いなさい。 ヨハネ21:19

 

 花婿なるキリストは、愛する花嫁に、多くのことを求めておられるわけではありません。
 「わたしを愛するなら、わたしのことばを守り、わたしに従いなさい。」ということ、ただそれだけです。

 

 マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。ルカ10:41-42

 

 私たちは、しばしば「自分の知恵」を駆使し、「自分の考える方法」で、花婿をあっと驚かせ、花婿を喜ばせよう、花婿に愛を示そうと考えます。
 しかしそれは、愚かで幼稚な花嫁の「自己満足」に過ぎません。
 
 愚かで幼稚な花嫁は、「花婿」よりも、むしろ「自分の思い」を愛し、「花婿の望んでいること」ではなく、「自分のやりたいこと」を行なっているに過ぎません。そして、「花婿のために、いろいろなことをしている自分」を愛しているだけなのです。
 残念ながらこれは、「自分勝手な愛の押し売り」です。
 
 しかし愚かな花嫁は、その幼なさゆえ、そのことに気が付きません。そして、「こんなに頑張っている私を、花婿は誇りに思い、喜んでくれているだろう。」と思い込んでいます。
 実に、悲しいすれ違いです。

 
 
 賢い花嫁は、まず花婿に聞かなければなりません。
 「あなたは何がお好きですか。」
 
 私たちは聖書全体から、花婿の望まれること、喜ばれることを知ることができます。
 賢い花嫁は、「花婿の好き嫌い」を、聖書を通して熟知しています。

 さらに賢い花嫁ならば、それだけにとどまらず、「今日の花婿の様子」まで、注意深く見極めて、「花婿の心」を察して、花婿に問いかけるでしょう。
 「今日は何をお望みですか。」
 
 花婿の顔色がすぐれない日に、愚かな花嫁は、「自分の思い」に従って、腕をふるって豪勢なフルコースを用意するかも知れません。
 しかし、真に賢い花嫁なら、花婿のそばにひざまずいて、静かに問いかけるでしょう。
 「少し顔色がすぐれないようですが、今日はどんなものをお召し上がりになりますか。栄養があって、消化の良いものを、少しだけお作りしましょうか。」

 
 
 これが、花婿を「主」とし、花婿を愛する花嫁にふさわしい態度でしょう。
 私たちの花婿は、生きておられるのです。木や石でできた「凝り固まった偶像」ではありません。
 花嫁が、「自分の考え」や、「過去の経験」や、「思い込み」を捨てて、いつも、「生きておられる花婿」に、みこころを尋ねて歩むなら、花婿は、常に満足を得ることができるでしょう。

 
 最近読んだ本の中に、「ある政治家の言葉」が紹介されていました。
 「真理の最も大きな敵は、嘘・偽りではないことが多い。嘘・偽りは、不誠実で、意図的で、手が込んでいる。真理の本当の敵は思い込みである。思い込みというものは、なかなか振り払うことができず、変に説得力があり、非現実的である。」
 
 私にとっても、この言葉は、忘れられない教訓となりました。

 私たちは、主様の御前に、本当に愚かで、盲目で、「思い込み」、「勘違い」の甚だしい者です。
 もし、「私には思い込みなどない。」と思う人がいたら、その人は「最も思い込みの激しい人」でしょう。
 
 
 私たちは、絶えず、「思い込み」から洗いきよめられるように、主イエス様に祈り求めましょう。
 そして、花婿なる主イエス様を「愛し」、このお方の「みことばを読み続け」、このお方に「みこころを尋ね求め」、このお方に「従い」、「みことばを守り行い」ましょう。

 
 私たちが、いつもそのようであるなら、花婿なる主イエス様は、どんなに花嫁を愛し、いつくしんでくださることでしょう。
 そのような花嫁は、必ず多くの子どもたちを産むでしょう。

 

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。ヨハネ15:5

 

 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
 主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

 主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。詩篇127:1-3

 

 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。ローマ7:4