いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

またと奴隷のくびきを負わない キリストの花嫁の自由

 

 

 聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ4:30-5:1

 

 私は「廃墟となった主の宮」を見ています。
 主様の恵みによって、多くの信者で満たされ、近代的な空調、音響設備が整えられ、すべての必需品にも満たされ、何一つ足りないことのない、「豊かになった宮」は、私の目には、まるで廃墟のようです。
 この宮は、最初に建てられてから50年間、主様は毎年、バプテスマを受ける者たちを起こされ、私たちを喜びで満たし続けてきてくださいました。
 しかし昨年は、一人の実も結ぶことがなく、そのまま今日に至っています。
 
 私がこの宮で見るのは、道徳的な歩みに疲れ果てた兄弟姉妹の能面のような微笑みであり、私がこの宮で聞くのは、この世の知識と、自分の考えに満ちたメッセージです。

 

 主を礼拝するために、この門にはいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。
 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。

 あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。
 もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

 なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
 それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている。』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。エレミヤ7:2-10

 

 いったい私たちは、「神の福音」を、真に理解できているのでしょうか。
 この宮に満ちているのは、「神の福音」ではなく、何か別のものです。

 

 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。ガラテヤ1:6-9

 

 「福音」とは、いったい何でしょうか。
 福音とは、「良いお知らせ」です。
 「神の福音」とは、「イエス・キリストの贖いのゆえに、私たちの罪が完全に赦された」ということです。
 イエス・キリストの贖いを信じ、「無罪放免」とされた私たちは、もう決して、神から罪に定められ、永遠の滅びに入れられることはありません。

 

 キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 ローマ8:1

 

 では、すでに救われた私たちクリスチャンにとって、「神の福音」とは何でしょうか。
 私はなお繰り返して言います。「神の福音」とは、「イエス・キリストの贖いのゆえに、私たちの罪が完全に赦された」ということです。
 
 救われた私たちは、地上ではなお、朽ちていく身体をまとっており、だれも「肉の性質」から逃れることはできません。
 それゆえ、私たちは無知ゆえに、或いは愚かさゆえに、残念ながら罪を犯してしまう者です。
 「律法による義についてならば非難されるところのない者(ピリピ3:6)」と言うことのできたパウロでさえ、晩年の手紙になお、「私はその罪人のかしらです。(Ⅰテモテ1:15)」と証ししたほど、「自分は現役の罪人である」ことをはっきりと自覚していました。

 

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

 

 しかし、キリストの完全な贖いのゆえに、私たちは自分の罪を素直に認め、神の御前に言い表わすことによって、赦され、きよめられます。
 この「完全な救い」、「完全な赦し」こそ、「キリストの福音」です。
 
 私は日々、自分自身のうちに、骨の髄まで腐り果てた罪人の性質を見せられ、そのおぞましさにおぞけだちます。
 「昨日までは、もう少しマシな人間だと思っていたのに…。ここまで深く腐り切っていたのか…。」と、驚かされ続けます。
 しかし、私は絶望しません。

 

 しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。ローマ5:20

 

 自分自身さえ知らなかった、こんなろくでもない罪人を、主イエス様は、初めからすべてご存じで、こんな者をお救いになるために、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:7-8)
 ああ、なんとあわれみ深く、いつくしみ深い、神の恩寵なのでしょう。
 これこそ、「キリストの福音」です。
 
 しかし、私の見るところ、「あるクリスチャンにとっての福音」とは、「(罪赦されて)義人となった」、「完全な人間になった」ということのようです。

 

 私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ4:24-25

 

 確かに私たちクリスチャンは、神の御目には、「キリストのうちにあるがゆえに義人」とみなされています。
 しかし、私たちはただ、「義人とみなされている」だけであって、決して「義人そのもの」ではありません。
 神も、キリストも見ていない未信者の目には、私たちクリスチャンは、事実、紛れもなく「ただの罪人」です。

 
 しかし、「クリスチャンである私は義人となったのだ」、「完全な人間になったのだ」と、勘違いしてしまうと、「完全な人間として歩まなければならないという奴隷のくびき」を負わされてしまいます。
 このように福音を勘違いしている人は、神の御目よりも、「人の目」をより強く意識し、「人の目に義人」と認められようとして、「肉」の決意や頑張りによって、「人間の方法」で、「人間の考える善行」を熱心に行なおうとします。
 そして、「福音の真理に立ち返るように」との、他のクリスチャンの助言さえも、「義人である私に対する非難」と捉えてしまい、「自分の義を立てよう」と必死に抵抗してしまいます。

 
 私はこれを、あえて「道徳的な歩み」と呼びたいと思います。
 これは、「律法的な歩み」ですら、ありません。
 私たちは「キリストの律法」、「自由の律法」をまっとうする「新しいいのち」を与えられました。
 しかし、「道徳的な歩み」は、「自由の律法をまっとうする歩み」ではありません。
 「道徳的な歩み」は、「人間をかしらとする」、「生まれながらの人間のいのちによる」、「肉の奮闘」です。彼らは、「道徳の囚人」です。

 

 私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
 決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。
 「義人はいない。ひとりもいない。 ローマ3:9-10

 

 私は何度も、同じことを言います。
 「義人」など、地上にひとりもいません。
 私たちクリスチャンはただ、神の御目に、キリストの贖いのゆえに、キリストを信じる信仰によって、「義人とみなされている」だけです。
 
 私たちは、「ありのままの自分は、ただの罪人に過ぎない」ことを、素直に認めましょう。
 「義人のふり」をして、「義人を演じる」のは、もうやめましょう。
 それはただ、私たちを疲れ果てさせ、私たちを苦しめる「奴隷のくびき」です。
 それは、「福音」ではありません。

 

 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。ピリピ1:27

 

 私たちは、「キリストのあわれみによって、神の恩赦を受けた罪人」です。
 何の功績もない私たちが、一方的な恩赦をいただいて、釈放されたのです。
 恩赦によってシャバに出た私たちは、生まれてこのかた一度も罪を犯したことがないかのように口をぬぐい、誰よりも賢くなった知恵者のように、堂々と偉そうに振舞っても、良いものでしょうか。
 
 「キリストの福音にふさわしい生活」とは、「義人らしく」、肩をそびやかし、胸をそらして歩むことではありません。
 「キリストの福音にふさわしい生活」とは、私たちが、本来、死刑にされてしかるべき者であり、恥ずかしくて到底、世間様に顔向けなどできない者、シャバなど出歩くべきではない者として、「恩赦をいただいた罪人らしく」、赦してくださったお方を尊び、畏れおののきつつ、「キリストの御霊」に従って、謙遜に歩むことではないでしょうか。

 

 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。Ⅰコリント6:19-20

 

 買い取られた私たちは、死刑囚であった「自分自身の考えに従って」、善を行なうのではありません。

 

 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:1-2

 

 買い取られた私たちは、心の一新によって自分を変えられ、「神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」、「御霊の導きに従って」、初めて善を行なうことができます。
 すべての善いことを「なし遂げてくださる」のは、私たちのうちに力強く働いてくださる「キリストご自身」です。私たち自身ではありません。
 「私たちの責任」は、キリストの御霊の導きに逆らわず、退かず、「徹底的に従っていく意志を持つこと」だけです。

 

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。ヨハネ5:19-20

 

 主イエス様は、自分からは何事も行なわれませんでした。父がしておられることを見て、同様に行なわれました。
 私たちは、主イエス様の御霊の導きを見て、主イエス様がしておられるわざにあずかるのです。

 

 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。
 「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:31-32

 

 もし私たちが、聖書のみことばに堅く立ち、みことばに従い続けるならば、私たちは本当に「キリストの弟子」です。
 自分に都合のよい時だけ従う、或いは、自分が納得できた時だけ従うのは、「弟子」ではありません。
 しかし、キリストと、そのみことばに従い続ける弟子は、真理を知り、自由になります。

 

 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。Ⅱコリント3:17

 

 主の御霊に従い続ける歩みは、真に解放された自由な歩みです。
 風のように、水のように、どこにでも自由について行くことができます。

 

 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1

 

 キリストの愛を、真に信頼しない者は、「キリストの御霊に従うこと」を恐れます。
 全面的に従ってしまったら、とんでもなく不都合な場所、困難なところに導かれ、迫害や苦難に会わされるのではないかと思い込んでいます。
 この誤解のゆえに、多くのクリスチャンは、「自分の考え」と、「自分の力」によって、「自分の人生」をコントロールしようとして、主イエス様が断ち切ってくださった「奴隷のくびき」を自ら負っています。
 
 私が声を大にして、このことを警告したいのは、私もかつて、御霊に従わず、「自分の考え」に従って、滅びを刈り取ってきたからです。

 

 信仰を与えられて1年ほど経ち、「祈りは、時間に正比例して聞かれない」ことを悟ったとき、合理主義者の私は、「自分の考え」に従って、「投入時間に応じて報いが与えられる仕事」に、より多くの時間を費やすようになりました。
 私は、「大きな仕事をすれば、神の栄光を現わすことができる」と、甚だしい勘違いをしていました。

 
 神である主は、何度も仕事上の困難をお与えになり、私を引き寄せようとしてくださいましたが、私は「神様、この程度の困難は、自力で解決できます。神様はお忙しい方でしょうから、他の人のところへ行ってあげてください。」と、傲慢にも主様の助けを拒み続けていました。

 
 そんな私に主様は、いつまで続くとも知れない大量の仕事をお与えになり、数か月すると、遂に自宅で資料を読もうとすると吐き気をもよおすほどのうつ症状が現われました。
 「頑張ることしか取り柄のない私」が、頑張れなくなってしまったら、私に生存価値などないと思いました。
 私には、「頑張れない私」など、受け入れることも、許すこともできませんでした。
 しかし、頭では頑張ろうと思っても、身体はそれを拒否します。

 
 そうこうしているうちに、人事異動の内示があり、私の仕事の範囲は倍増されるとのこと。現状ですらオーバーワークなのに、なぜこんなことになってしまうのでしょうか。私の問いに上司は答えました。「あなたならできる。」
 私は、「仕事は、頑張っただけの報いがある。」と思い込んでいましたが、結局、仕事の報酬とは、「さらに多くの仕事が増し加えられる」だけのことでした。

 
 重荷で泥沼に沈み込んでいく私に、さらに追い打ちをかけるような事件が起きました。仕事に全精力を傾けてこられた、私が尊敬し、頼みの綱、希望の光としていた役員が、組織のパワーバランスの中で、左遷の憂き目にあうのを目の当たりにさせられたのです。
 うつ状態もピークの私は、あまりにも深い絶望と悲しみに、三日間、泣き続けました。
 生きておられる主様は私に、徹底的に仕事の空しさを叩き込んでくださいました。

 

 あなたは種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブをしぼっても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない。ミカ6:15

 

 私は、主様のために何の役にも立っていないばかりか、仕事でも役立たないうつ状態になり、ただ呆然と、立ちすくんでいました。
 しかし、こんな私にさえも、主様は、みことばを送って、いやしてくださいました。

 

 あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。ナホム1:14

 

 私の目から、うろこが落ちました。
 ああ、主は、こんなつまらない者のために、墓を設けてくださっていました。
 ようやく私は、墓に行くべきであることを悟りました。
 
 私は長らく、十字架の上で、「苦しい!動けない!助けて!」と、悪あがきし、もがき続けていました。
 十字架は、釘づけられて、動くことのできない、ただの苦しみの場所でした。
 十字架は、神の子どもの「永住地」、「相続地」ではありませんでした。
 十字架は、確かに、常に私たちの「経由すべきところ」ですが、いつまでも留まり続けることは、実に馬鹿げたことでした。
 
 無駄な抵抗をやめ、虚無に服し、「墓に行くこと」を学んだとき、初めて「主様のよみがえりのいのちにあずかること」を知り、ようやく私は「神の安息に入ること」を学びました。 

 

 信じた私たちは安息にはいるのです。ヘブル4:3

 

 私は新生のとき、「事実」としては、すでに「神の安息地」に入れられていたのですが、愚かにも、自分勝手に、目の前が見えなくなるほどの「仕事という荷物」を持ち込んで、抱え込み、「重い!苦しい!早く、安息地に入れてください!」と叫んでいたのです。
 「その重荷」を下ろしてみたとき、私の身体は憩いを得て、ほっとして顔を上げると、これまで荷物で塞がれていた視界が開け、そこは初めから「神の安息地」であったことを見出しました。

 

 主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。エレミヤ17:21

 

 私は「神の安息」に入れられた喜びの中で、主様が退職に導いておられるのではないかと感じ始めました。
 すると間もなく、長老が私に声をかけてくださいました。
 「姉妹との結婚を祈っておられる兄弟がいます。祈ってみませんか。」
 
 すでに若くもなく、およそ姉妹らしくもない私は、そんな奇特なご兄弟がおられたことに感心しつつ、名前も知らないその兄弟との結婚について祈りました。
 その時に、与えられたのが、次のみことばでした。

 

 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。マタイ4:19-20

 

 私は、この結婚は主様のみこころであり、私たちは「人間をとる漁師にしていただく」のだと確信し、名前も知らないその兄弟に従っていこうと決心しました。
 そして、「網を捨てること」、すなわち退職が、やはり主様のみこころであったのだと思いました。

 
 しかし、その後、長老からは何の話もないまま、時間だけが過ぎて行きました。
 私は祈りました。
 主よ。私は本当に退職すべきなのでしょうか。私はただ、辛い仕事から逃げ出したいと思っているだけなのでしょうか。
 退職することが、みこころならばそれに従いますが、この結婚話は、なくなるかもしれないので、再就職先が決まってから退職した方が良いのではないでしょうか。
 すると、主様は答えられました。

 

 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。ヘブル11:8

 

 このみことばを与えられた私は、どこに行くかは知らなくても良いのだと悟り、何も決まらないまま、退職願を提出しました。
 退職願が正式に受理された後、長老から三か月ぶりに声をかけられました。
 そして、この結婚話はご兄弟の事情で、たち消えとなったことを聞かされました。
 私は今日まで、ご兄弟のお名前も、その事情も、まったくあずかり知らないままですが、主様が明らかにされなかったことは、知る必要もありません。

 
 ともかく私は、こうして職場を去り、主様は全能の御力をもって、1年後には約束通り、何の可能性もない無職の私を、相続財産として受け取るべき地に、住まわせてくださいました。
 私は、主様の導かれるまま、仕事を捨て、持ち家を捨て、守るべき何物もないほどに、身軽にされていきました。
 私はかつて、「自分の考え」に固執し、「自分の力」に拠り頼んで奮闘していた頃とは、比べ物にならないくらいに自由にされていきました。

 

 私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。Ⅰ列王記17:1

 

 相続財産として受け取るべき地に住んで2年半経ち、私は早朝の公園で、聖書の音読と、賛美を始めるように導かれました。
 間もなく4ヵ月になりますが、私は日々、ここで熱心に働き続けておられる万軍の主に圧倒されています。

 
 この公園を通るのは、ジョギング、ウォーキング、犬の散歩の方、また、ベンチそばのトイレに立ち寄られる早朝から働く方などです。
 家業の牛乳配達を終え、頭にはスカーフ、腰には三河屋さん風エプロンという不思議ないでたちでベンチに座り、大きな声で聖書を通読し、聖歌を賛美する私は、極めて怪しげな有様です。
 しかし、この奇妙な人物のもとに、次々と人々が引き寄せられて来ます。

 

 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た。創世記7:8-9

 

 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。ルカ5:1-6

 

 ノアの箱舟には、神が命じられた生き物たちが、はいってきました。
 シモンの網には、神が命じられたたくさんの魚が、はいってきました。
 ノアも、シモンも、生き物たちを必死に追いかけたり、つかまえたりする労苦を強いられませんでした。
 生き物たちは、神のご命令によって、自ら進んで、入ってきました。
 万物の創造主であられる神は、確かに、被造物を思いのままに動かす権威を持っておられました。

 
 しばらく公園に通い続けていると、「いつも何をしているのですか。」と、近寄って尋ねてくださる方が、次々と起こされてきます。
 私は愚直にベンチに座っているだけですが、万軍の主は熱心に働いておられ、人々は向こうから近づいてきてくださいます。

 忠実な神のしもべ犬は、日々、熱心に飼い主さんご家族を連れてきてくれます。
 冷たい缶コーヒーを差し入れに来てくださるご親切な中年男性。
 人との触れ合いを求めて、話しかけてきてくださる高齢女性。
 
 私は、近づいて来られた方々に、クリスチャンであることをお伝えして、聖書メッセージ入りの月間小冊子をお渡しします。
 私は自分からは多くを語りませんが、不思議なことに人々は、ご自分のこと、ご家族のことなどを、進んで話してくださいます。また、聖書について、他の宗教について、質問してくださいます。

 

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。黙示録2:24-25

 

 主様は、私に何の重荷も負わせなさいません。
 私は日々、主様のみわざに驚きを持って目を見張り、暗やみに座っている民への主様の愛を知り、注意深く御霊の声に耳を傾けています。
 私の責任は、しっかりと意志を持って、キリストの御霊に聞き従い続けることだけです。

 

 私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 マタイ8:9

 

 「キリストの弟子」、「キリストのしもべ」の歩みは、まったく身軽で、自由です。
 私たちは、結果責任を問われません。私の期待した通りに事が運ぶか、否か、それはただ主様のみこころによります。
 私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、ただ忠実に、御霊から聞いたことを行なえば良いのです。

 私は「私の出来栄え」を自己点検する労苦すら負わされていません。
 私は「足りないしもべ」です。自己採点が、たとえ満点であったとしても、神の御目には、ないも同然です。

 

 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。
 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:9-10

 

 私たちは、言いつけられたことを終えたら、主様の御前にひれ伏して、「お粗末さまでした。」と、申し上げることを覚えましょう。
 私はただ、このように足りない者をも、みわざにあずからせてくださる主様のいつくしみ深さに、日々、感謝し、足りない働きを補ってくださる主様のあわれみによって、慰められています。

 
 主様は私が何の重荷を負うことも好まれず、私が自ら「一本のひも」さえ担うことをお許しにはなりません。
 主様は愛する花嫁に、何の労苦もさせようとは思っておられません。
 キリストは、花嫁の「重荷」を、「恥」と感じておられます。
 キリストは、花嫁に労苦を強いるような、「甲斐性なしの夫」ではありません。
 
 キリストがすべての労苦を担ってくださいます。
 私たちは、花嫁として安息し、ただキリストに従って、キリストについて行き、キリストのみわざを見て、キリストをほめたたえ続けましょう。
 これが、キリストに愛されている花嫁の特権。私にとって真の福音です。

 

 目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。―主の御告げ。―あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。
 必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。
 そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』」

 神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来る。王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」イザヤ49:18-23