いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「主とともに歩む」 モリヤの山に向かうイサクの歩み

 

 

 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。
 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。創世記6:8-12

 

 ノアは、主の心にかなった、神の御目にも喜ばれる「正しい人」でした。
 それは地が、神の御前に堕落し、暴虐で満ち、乱れている最中にあって、異彩を放つ、実に美しいコントラストでした。
 
 今の終わりの時代も、誰もが認めざるを得ないほど、地は暴虐に満ち、権威も秩序も失われ、非常に乱れています。
 しかし私たちクリスチャンは、「堕落」ということばには、「神の前に」という修飾語が置かれていることの意味を、より深く吟味すべきではないでしょうか。
 それは、「人間の目で判断される堕落」ではなく、「神の御前における堕落」です。
 
 もし人間が、自分たちの知恵と力を誇り、神の領域を侵犯しようとするなら、それは「神の御前には堕落」でしょう。
 もし私たちクリスチャンが、神の定められた方法に従ってではなく、この世のならわしや風習に従って、神に有形・無形のささげものをするのなら、それは「神の御目には堕落」ではないでしょうか。
 
 しかし、「神の御前に堕落」していても、人の目には、堕落に見えないこともあります。かえって、「神様のために熱心に行なわれている素晴らしい働き」に見えることさえ、ありうるのです。

 

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」創世記11:1-5

 

 バベルの塔を築いた時代は、高度な技術革新が見られた文明社会であったでしょう。人々は、それを喜び、誇りとし、まさかこの「良いこと」が、「神の御目に堕落」しているなどとは、思いもよらなかったのではないでしょうか。
 彼らは見るところ、極悪人ではなく、むしろ知識に富み、教養にも優れた尊敬に値する人々だったのではないでしょうか。彼らは豊かな繁栄を楽しみ、むしろ「自分は神に祝福されている。」とさえ思い込んでいたのではないでしょうか。
 
 ノアは、そのような誤解と勘違いの甚だしい時代にあっても、「神の御前に全き人」として、「神とともに歩み」ました。
 いったい、この両者を分け隔てた「違い」は、どこにあったのでしょうか。

 

 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。創世記6:1-3

 

 ノアの時代、「神の子ら」は、人の娘たちが、いかにも美しいのを「見て」、その中から「好きな者を選んで」、「自分たちの妻として」いました。
 主様はそれをご覧になり、「人は肉にすぎない」と仰せになりました。

 

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:6

 

 エデンの園の女は、「自分の目」、「自分の見るところ」に従って、「好きなものを選び」、「自分のもの」としました。
 これが、悪魔の支配下にある「肉」に従って、歩むことでした。

 

 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。ローマ8:5
 

 肉にある者は神を喜ばせることができません。ローマ8:8
 

 私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
 しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。ローマ8:12-13

 

 私たちクリスチャンは、確かに、「肉の中にではなく、御霊の中に(ローマ8:9)」いますが、この肉体をまとっている限り、絶えず「肉」が働きます。この「肉」は、「自分の目で見て」、「自分の好きなものを選んで」、「自分のものとする」ことが好きです。この「肉」は、とことん「自己中心」です。

 

 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)マタイ1:23
 

 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

 

 しかし、インマヌエルなる神は、いつも、「こんな私たち」とともにおられます。
 そして、このお方、私たちの主イエス・キリストは、へりくだって、「このような私たち」とともに、歩んでくださいます。

 

 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。
 わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。ヨハネ15:12-15

 

 そして、私たちの主イエス・キリストは、さらにへりくだられ、私たちクリスチャンを「友」と呼んでくださいました。
 それゆえ、あるクリスチャンは、「イエス様は友だち」と語り、「イエス様と友だちのように親しくしよう」と教えます。
 この延長線上で、「イエス様といっしょに歩もう」と教えられると、重大な勘違いを生んでしまうことがあります。

 
 私は若いクリスチャンたちに、「イエス様とともに歩むということが、よく語られるけど、それは具体的にどんなイメージ?」と尋ねます。
 すると、ほとんどのクリスチャンは、「イエス様といっしょに、並んで歩く」図を描きます。
 
 私も、かつて、「イエス様とお手手つないで、スキップしながら歩く」イメージを持っていました。
 しかし、このイメージを持って歩んでいると、「私」が主導権を握り、「イエス様、こっちに行こう!」、「イエス様、あそこにも行きたい!」などと、自分の肉の欲のおもむくまま、好き勝手な道へ、イエス様を引きずり回しておきながら、「私はイエス様とともに歩んでいます。」と恐れ気もなく語るような、「主を主としていない、まったく自己中心的な歩み」になってしまうのではないでしょうか。

 
 しかし、冷静にみことばを読むなら、主イエス様は、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友」と、おっしゃったのです。主イエス様は、「自分の好き勝手なことを行なう者の友」ではありません。
 
 そして、こんな肉の性質を持つ私たちをも、へりくだりの限りを尽くして、「友」と呼んでくださる主イエス様は、注意深く、さらに続けて次のようにも語られました。

 

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。ヨハネ15:16

 

 「主」イエス様が、私たちを選ばれたのです。
 「主」は私ではなく、「私を選んでくださった主」イエス・キリストです。 

 

 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。
 「わたしに従いなさい。」ヨハネ21:18-19

 

 私たちはかつて、「自分の歩きたい所を歩む」者でした。
 しかし、「イエスを主と告白(ローマ10:9)」した私たちは、今は、聖霊を与えられ、「主」イエス・キリストの御霊の導かれる所に連れて行かれ、「主」イエス・キリストの御霊に従う者とされたのです。

 

 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。創世記22:6

 

 「主とともに歩む」とは、「モリヤの山に向かうイサクの歩み」のようではないでしょうか。
 「モリヤ」という地名には、「主に選ばれる」という意味があるそうです。
 アブラハムとイサクは、「自分たちの選んだ、好き勝手な場所」に向かったのではなく、「主がお選びになった場所」に、出かけて行きました。

 
 聖書には示されていませんが、私には、イサクが、アブラハムの半歩後ろを歩んでいる姿が思い浮かびます。
 彼らは「いっしょに歩いている」のですが、イサクは「半歩下がって」、「師の影を踏まず」のごとく、父に敬意を払いながら、従順に付き従って歩いて行ったのではないでしょうか。

 
 イサクは、父アブラハムが、若い者たちに、「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。(創世記22:5)」と言っているのを、そばで聞いていたでしょう。
 そして礼拝には、「全焼のいけにえ」が必要なことも、知っていたでしょう。
 実際イサクは、父アブラハムから、「全焼のいけにえのためのたきぎ」を、負わされていました。
 しかし、そこには「全焼のいけにえの羊」は見当たりません。
 そして、「火と刀」は、イサクには渡されず、父アブラハムの手にありました。
 
 「もしかして…。」、「ひょっとすると…。」、「全焼のいけにえって、…、…、…。」
 不安に駆られたイサクは、遂に、恐る恐る父アブラハムに尋ねました。

 

 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」
 すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。
 イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
 こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。創世記22:7-8

 

 それは、わかったような、わからないような、実に不思議な答えでした。
 何しろ、イサクの目の前に、「全焼のいけにえの羊」は、見当たらないのですから。
 聖書には、これに対するイサクの返事は記載されていません。
 イサクの不安は、父アブラハムの答えを聞いても、完全には解消されなかったのではないでしょうか。

 
 しかしイサクは、この父を信頼していました。イサクの「父に対する信頼」は、イサクの「不安」を上回っていました。
 それゆえイサクは、多少の恐れと、不安を感じつつも、父に信頼して、半歩下がって、父に従い、「いっしょに歩き続けた」のではないでしょうか。

 

 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。
 すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。Ⅰコリント11:23-26

 

 夫の転勤に従って、渡米された姉妹が二人の子どもたちと1年ぶりに帰省されました。
 決して英会話の得意でない一家にとって、アメリカでの暮らしは、言いようもない辛さがあるようです。
 
 しかし彼女は、主様の御名のおかれた現地での集まりに集い、礼拝の言葉の意味はほとんどわからなくても、ともに主様の御死を覚えて、パンと杯にあずかるという特権が、どんなに大きな恵みであるかを、ひしひしと覚えさせられていると語ってくださいました。
 また、言葉が通じなくても、兄弟姉妹を愛することのできる幸いを、霊・たましい・からだに感じて、主様に感謝しておられました。
 
 そして、私たちクリスチャンは、主様のために何かの奉仕をするためではなく、「主様を礼拝するために召されたのだ」ということを、改めて覚えさせられたと、語ってくださいました。
 
 父アブラハムに従って、歩み続けるイサクの道は、確かに「礼拝への道」でした。

 

 「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
 あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。Ⅰ列王記9:3-5

 

 私たちは、ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、父なる神様の御前に、私たちの「主」イエス・キリストとともに、このお方にまったき信頼を置いて、半歩下がって従い、主様のご命令をすべてそのまま実行して、歩み続けましょう。

 

 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。詩篇23:4

 

 このお方は、死の陰の谷をも、私たちとともに歩んでくださいます。
 このお方の「むちと杖」は、私たちを悪い者から守ってくださるためのものです。

 

 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。詩篇37:24

 

 私たちの歩みを確かなものとしてくださるお方は、主ご自身です。

 

 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。ヨハネ11:7-9

 

 主イエス様は、たった今、石打ちの危険にさらされたばかりの地に、大胆にも、「もう一度、行こう。」と仰せられました。
 弟子たちは、主イエス様のリスク管理意識のなさに呆れ果てたことでしょう。
 しかし主イエス様は、「この世の光であられる主イエス様」を見て、主イエス様のおられるところを歩くならば、つまずくことはないと教えられました。

 

 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」ヨハネ9:4-5
 

 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。ヨハネ12:35

 

 草のように過ぎ去って行く者に過ぎない私たちが、地上で主様とともに働くことのできる時間は、ほんのわずかです。
 主様のご再臨、間近き今、光がある間に、私たちを遣わしたお方のみわざを、このお方とともに成し遂げましょう。
 このお方は、いつも私たちとともに、おられます。

 

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12