いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

内なる感動が、自由の律法をまっとうする

 

 

 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。ローマ1:22-23

 

 神は「霊」です(ヨハネ4:24)いまだかつて、だれも神を見た者はありません(Ⅰヨハネ4:12)。
 生まれつきの人間にとって、「霊であって、見えない神」を信じ、礼拝することは、非常に困難なので、「この世の知者たち」は、目に見える「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」を、「具体的な神」として代用しました。
 「この世の知者たち」は、「霊であられる神のみこころ」に逆らってでも、「生まれながらの人間にとって、わかりやすいように具体的に提示する」ことを選びました。

 

 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」マルコ12:28-31

 

 最も大切な命令は、「神を愛すること」であり、次に大切な命令は、「隣人を愛すること」です。この二つより大事な命令は、「ほかにはありません」。
 神のみこころである律法の「本質」は、「神を愛し、そして隣人を愛すること」でした。
 
 しかし、「愛する」とは、心の中のことなので、目には見えません。いまだかつて、「愛」を見た者はありません。
 そこで、神は人に、「知識と真理の具体的な形として律法(ローマ2:19)」をモーセを通して、お与えになりました。

 

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」出エジプト記20:2-17

 

 このいわゆる「十戒」によって、人は、「神を愛し、そして隣人を愛する」とは、「具体的には、どういうことか」をわきまえ知ることができるようになりました。
 しかし、神様のみこころが、「具体的になった」とき、人は「その本質である愛する心」を忘れ、「具体的な形としての律法」をマニュアルチックに守ることに汲々とするようになってしまいました。
 「具体的な形としての律法」は、人が守っているかどうか、目で見て確認することができます。人目に隠れて行なわれているのでない限り、外形的に善悪が判断できます。
 
 しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Ⅰサムエル16:7)」 のです。
 神様は、外形的に律法を守っているかどうかを、ご覧になるのではありません。その人の心が、「神を愛し、そして隣人を愛して」、そのことをなしているかどうかに関心を持たれます。
 「うわべしか見ることのできない人間」は、外形によって欺くことができますが、「心をご覧になる神様」を、外形によって欺くことはできません。
 「心の伴わない外形の行ない」は、もしかすると人間の称賛を浴びるかも知れませんが、神の栄誉を受けることのない、実にむなしいものです。

 

 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。ヨハネ14:8-9

 

 人間は本当に、目に見える「具体的な形」に弱い者だと教えられます。
 私たちは、本質からそれて、「具体的な形」に心を奪われないように、「具体的な形」の罠に陥らないように、注意しましょう。

 キリストは、今や「奴隷のくびき」と化してしまった「具体的な形としての律法」から、人を解放するために、来てくださいました。

 

 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。マタイ5:17-20

 

 キリストは、「律法を廃棄するため」に来られたのではありません。
 人を、「奴隷のくびきに変質させられてしまった、具体的な形としての律法」から解放し、律法の本質、つまり「心の律法を成就するため」に来られたのです。
 ですから私たちは、「クリスチャンは、もう律法を守らなくても良い」とか、「何でも好き勝手にやって良い」などという愚かなことを考えてはなりません。

 

 あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ5:13-14

 

 神のみこころは、変わることがありません。
 神様のみこころは、私たちが「律法の外形」を守ることではなく、「律法の本質」をまっとうすることです。
 「律法学者やパリサイ人の義」とは、「律法の外形」だけを守り行う、「人の目にかなう義」のことでしょう。
 「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」とは、人の目に義であるばかりでなく、「神の御目にもかなう義」でしょう。
 それは、その人の心が、「神を愛し、そして隣人を愛して」、結果として、「具体的な行ないが現わされること」です。

 

 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。ローマ8:1-4

 

 私たちクリスチャンは、キリスト・イエスの中にある者として、決して罪に定められることはありません。私たちの救いは、キリスト・イエスの贖いのゆえに、完全です。私たちはもはや、律法によって、「罪に定められる」ことは、決してありません。
 キリスト・イエスの贖いのゆえに、私たちの神の御前の判決は、「無罪」と確定しています。
 しかしそれは、もし律法を守らなかったとしても、「キリストの完全な贖いのゆえに、神によって有罪認定されることがない」だけであって、心の律法を犯しているのなら、それは罪です。
 
 私たちが「罪に定められない」ようにしてくださったキリストの目的は、律法に無頓着な歩み方をさせるためではなく、「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるため」でした。

 

 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:31-32
 

 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。ヤコブ2:12

 

 私たちクリスチャンは、神によって、「有罪」判決を受けることは決してありませんが、私たちは「自由の律法によって、さばかれる者」です。
 これは、「罪定め」のためのさばきではなく、「報い」のためのさばきです。

 
 「自由の律法」とは、何でしょうか。
 「自由」とは、「罪定めからの自由」を、示しているのではないでしょうか。
 私たちは何を行なったとしても、キリスト・イエスの贖いのゆえに、決して神によって罪に定められないという、驚くべき「罪定めからの自由」です。
 そして、善を行なっても、行なわなくても、無罪が確定している中で、「自らの意志で、神の命令を守り、行なうことを選択する自由」があるのです。

 
 無罪が確定しているのに、なお神のみこころを尋ね求め、神に従い、神の命令を守り、行なうなんて、馬鹿らしいことでしょうか。
 ここが、最も肝心なところです。
 私たちは、いったい何のために、神の命令を守り、行なうのでしょうか。
 神の無罪判決を獲得するためでしょうか。それなら、もう確定しています。
 
 では人間から、ほめられるためでしょうか。或いは神から、ほめられるためでしょうか。
 神様からほめられたいと願うことは、決して悪いことではありません。
 しかし、人からであっても、神からであっても、「ほめられること」を目的として、神の命令を守り、行ない続けることには、限界があるのではないでしょうか。
 その人は、実際にほめられなかったときに、ほめられないとわかったときに、もうそれ以上、続けることが困難になってしまいます。
 「ほめられること」を目的とした行ないは、常に「外形」を意識しています。
 人の目にどう映るだろうか、神の御目には、どう映っているだろうか、と。
 これが、「律法学者やパリサイ人の義」、「外形の義」です。

 

 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。出エジプト記25:2

 

 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。
 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。出エジプト記35:21-22

 

 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。出エジプト記35:26

 

 イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。出エジプト記35:29

 

 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。出エジプト記35:2-3

 

 神様のみこころは、旧約の昔から、神様に「心をささげること」でした。
 神に「心をささげる」者は、自ずから、「心の実」として、自然な「心からの愛の行ない」が現われました。
 その「行ない」は、神様に対する愛を立証するための「手段」ではなく、神様を愛したがゆえの自然な「結果」でした。
 神様の愛に「感動した者」は、その熱い感動に突き動かされて、心から進んでささげたいと願うようになりました。

 

 「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」
 まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。
 主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。イザヤ28:9-12

 

 私たちは、他の人を見るときも、目に見える「外形」にとらわれがちです。
 「外形」は、「心の実」でもありますから、注意を払うことは必要でしょう。
 けれども、「外形」を矯正することには、何の意味もありません。その人が、その訓戒を頭で理解して、「外形」で矯正に従ったとしても、それはその人の心から出ていないからです。信仰から出ていないからです。

 

 疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。ローマ14:23-15:2

 

 信仰から出ていないならば、それは「偽り」、「欺き」であって、罪です。
 そして、その「頭の実」は、早晩、枯れてしまいます。

 

 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。ルカ11:39-41

 

 私たちは、まず内側をきよめなければなりません。私たちの心が、キリストの御血によって洗いきよめられ、神への感動に満たされるならば、その感動が「行ない」に進ませてくれます。
 もはや、誰からも行ないを指示される必要はありません。御霊ご自身が、その感動を用いて、進むべき道へといざなってくださいます。
 それは何と、軽やかで、自由な、楽しい小道でしよう。
 
 私たちは、「力のない人たち」を、感動で満たしましょう。
 みことばを通して、初めの愛に、立ち返らせましょう。
 心がキリストに対する感動で支配されるなら、その霊・たましい・からだは、自ずから「心の律法(ローマ7:23)」、「キリストの律法(ガラテヤ6:2)」、「完全な律法(ヤコブ1:25)」、「自由の律法(ヤコブ2:12)」をまっとうします。

 
 
 ある兄弟に、「心の律法、自由の律法とは、何だと思いますか。」と質問してみました。
 すると兄弟は、放蕩息子のたとえを引用してくださいました。
 これは、非常にわかりやすいたとえでした。

 
 弟息子は、放蕩前も、父との感動の和解の後も、お父さんのもとで働きました。その働きぶりは、「外形上」、ほとんど同じであったかも知れません。
 父との和解を得た弟息子と、兄息子も、その働きぶりは、「外形上」、何ら差異はないように見えたかも知れません。
 もしかすると、兄息子の方が、熱心に多く働いていたかも知れません。
 しかし、その内側、心に満たされているものは、まったく異なりました。
 心が感動で満たされている弟息子にとっては、どんなに働いていても、毎日が宴会のようだったでしよう。

 
 このように、私たちを感動で満たし、喜んで仕える霊を与えてくださった父なる神様と、御子イエス・キリストの上に、栄光、尊厳、賛美、誉れ、いっさいの良きものが帰されますように。

 

 こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。
 
 「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。


 
 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。
 
 私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。
 
 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行なわせて、私が用意した城を建てさせてください。」Ⅰ歴代誌29:9-19