いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

心をきよめられ、聖霊によって神の子どもたちを産む

 

 

 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、… マタイ1:2
 
 …ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。マタイ1:16

 

 聖書によれば、アブラハムはイサクを、「生みました」。そしてイサクはヤコブを、「生みました」。
 アブラハムは、物理的にはイサクを産みませんでしたが、この聖書の表現は、夫であるアブラハムが「家族を代表する者」であったことを示しているのでしょう。
 
 しかし聖書によれば、最後のヨセフは、「イエス」を生みませんでした。
 「キリストと呼ばれるイエス」を「産んだ」のは、マリヤでした。

 

 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイ1:20-21

 

 「キリストと呼ばれるイエス」は、ヨセフの遺伝子によってではなく、「聖霊によって」、宿りました。

 

 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
 こうして夕があり、朝があった。第三日。創世記1:11-13


 
 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」創世記1:27-28

 

 神様の創造のみわざは、実に深遠です。
 神様は、種類にしたがって、「その中に種のある実」を「結ぶ果樹」を、芽生えさせました。
 そして、「子」を「生む人」を、創造されました。
 「実を結ぶ方法」として、また「子を生む方法」として、雌雄、男女の両性をお用いになりました。
 
 なぜ、わざわざ二つの性をお造りになられたのでしょうか。
 全能者なる神様は、人類を「単一の性」で創造し、また「単独で子を産む」という方法を採用することも、おできになられたでしょう。
 また、人類を「男と女」に創造されたにしても、「家長である夫が子を産む」という方法を採用することも、おできになられたでしょう。

 

 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。創世記2:24

 

 しかし神様の方法は、「男」が、「その父母を離れ」、「妻と結び合い」、「ふたりが一体となる」ことによって、「妻が子を産む」というものでした。

 

 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。エペソ5:31-32

 

 「キリストと呼ばれるイエス」の誕生は、まさしく「キリストと教会の奥義」を暗示しているのではないでしょうか。
 キリストは、父なる神様のもとを離れ、地上にまでくだられ、「花嫁たち」を捜し出して、お救いくださり、「キリストにあって一つのからだ(ローマ12:5)」としてくださいました。

 

 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。マタイ1:18


 
 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。黙示録19:7

 

 私たち「キリストの花嫁である教会」は、「キリストの妻」と決まっていますが、「ふたりがまだいっしょにならないうちに」、地上で、「聖霊によって」身ごもり、子を産むのです。
 神様は、ノアとその息子たちを祝福して、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(創世記9:1)」と言われ、ヤコブにも、「生めよ。ふえよ。(創世記35:11)」と仰せられました。
 創世の初めから、神様のみこころは、私たちが生み、ふえることでした。
 「キリストの花嫁である教会」は、「肉の子どもたち」ではなく、「神の子どもたち」を、聖霊によって、産まなければなりません。

 

 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
 
女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」創世記3:14-16

 

 「女の子孫」とは、「蛇の頭を踏み砕かれたお方」であり、聖霊によってお生まれになった「キリスト」です。
 「キリストの花嫁である教会」は、大いに苦しんで、「神の子どもたち」を、聖霊によって、産まなければなりません。

 

 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
 
 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。ヨハネ15:4-9

 

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16

 

 「産むこと」は、「実を結ぶこと」と同じです。
 神様のみこころは、私たちが「行って多くの実を結ぶ」ことであり、「その実が残ること」です。
 主イエス様は、「ぶどうの木」です。「ぶどうの枝」である私たちは、種類にしたがって、「ぶどうの実」しか結ぶことができません。

 

 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
 わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
 ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。イザヤ5:1-4

 

 私たちは今、実を結んでいるでしょうか。また、どんな実を結んでいるでしょうか。

 

 悔い改めにふさわしい実を結びなさい。マタイ3:8

 

 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。マタイ7:15-20

 

 私たちは、「自分たちが結んでいる実」によって、人々からテストされます。
 「私たちの実」は、「良い木」を証ししているでしょうか。
 主イエス様から、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。(ローマ2:24)」と言われないことを、願うばかりです。
 
 その木が、いったい何の木であるかは、「実」が生じた時に、はっきりと、明らかになります。
 「実」とは、その本質です。
 現「実」、真「実」、誠「実」、すべて、その「内側の本質」を問う言葉です。
 これに対する言葉としては、「表」現、「外」見、「口」実などが、挙げられるでしょうか。

 

 あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。黙示録2:2

 

 ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。黙示録2:9

 

 あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。黙示録3:1

 

 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。黙示録3:9

 

 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。黙示録3:17

 

 これらの教会に対するメッセージの共通点は、「実は…」です。

 

 人はうわべを見るが、主は心を見る。Ⅰサムエル16:7

 

 神である主は、「うわべ」ではなく、「心」をご覧になるお方です。
 現われた「実」とは、見えない「心の結晶」です。

 

 人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』
 彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。
 彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。
 彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。エゼキエル33:30-32

 

 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」マタイ15:7-9

 

 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。ルカ6:44-46

 

 私たちが、もし、「甘いぶどうの実」を豊かに結ぶことを本気で願うのなら、私たちは「ただみことばを聞くだけの者」や「ただ主よ、主よと呼ぶだけの者」ではあってはならず、「みことばを実行する者」とならなければなりません。
 しかし、私たちは誰一人、「形だけ」、「しぶしぶ」、「みことばを実行する者」であってはなりません。
 神様がお求めになるのは、「心」です。「内実」です。

 

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
 
 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
 
 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。マタイ23:23-28

 

 「実行」とは、内側にあるものの「実として現われた行ない」です。
 「内側にあるもの」、「心にあるもの」は、自ずから「実を結ぶ」のです。
 私たちは、まず「杯の内側」である、「私たちの心」をきよめ、新しくしなければなりません。
 内側をきよめれば、自ずから「外側もきよく」なり、「きよい実」を結びます。

 

 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
 「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
 
 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。Ⅱコリント6:16-7:1

 

 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。ヤコブ4:8

 

 私たちは、混じりけのある「二心」から分離され、「キリストとひとつ心」にされなければなりません。
 「もう一つの心」とは、「神以外の何らかのもの」を崇拝し、「神以外の何らのもの」に従って歩む「偶像礼拝者の心」でしょう。
 この「邪悪な偶像礼拝者の心」は、分離され、洗い流されなければなりません。
 それは、良い実を結ぶためです。私たちは、内側にあるものしか、真に結ぶことはできません。

 

 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
 あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。Ⅰヨハネ5:6-8

 

 邪悪な良心を洗い清めるものは、この「御霊」と「水」と「血」ではないでしょうか。

 

 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。テトス3:4-6

 

 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。エペソ5:22-27

 

 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。ヘブル9:13-14
 

 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。ヘブル10:22

 

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。Ⅰヨハネ1:7

 

 私たちは、日々、「聖霊による更新の洗い」を受け、また、聖書に親しむことによって「みことばによる水の洗い」を受け、「キリストの尊い御血の注ぎかけによる良心のきよめ、罪のきよめ」を受け続けましょう。

 

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:1-2

 

 そうして、私たちのからだを聖い、生きた供え物としてささげ、心を新たにされ、聖霊によって、聖い神の子どもたちを「産み出す者」としていただきましょう。

 

 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。イザヤ37:3

 

 「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか。」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか。」とあなたの神は仰せられる。イザヤ66:9

 

 神のみこころは、私たちが聖霊によって、「神の子どもたち」を産むことです。
 しかし私たちは、まるで産み出す力がないかのようです。
 たとえそうであっても、神は、「産ませるお方」です。

 

 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネ12:23-24

 

 すでに、「一粒の麦であるキリスト・イエス」が、尊いいのちをお捨てになられました。
 神の種によって生まれた私たちは、私たちのためにお死にくださったキリスト・イエスの「労苦の実」です。

 

 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
 
 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」ヨハネ4:34-38

 

 私たちが「キリストの満ち満ちた身たけにまで(エペソ4:13)」成長するために必要な食物は、「みことば」だけではなく、「父なる神様のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げること」です。
 真に労苦された農夫とは、父なる神様と、御子イエス・キリストでしょう。
 
 すでに畑は、色づいて、刈り入れるばかりになっています。
 私たちは、「自分で労苦しなかったもの」を刈り取らなければなりません。
 キリストの御死を、私たちは決して「犬死」にしてはなりません。
 
 私たちに貸し与えられている「ぶどう園」が取り上げられて、「季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに(マタイ21:41)」渡されてしまうことのないように、私たちも「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈り(マタイ9:38)」つつ、収穫に出て行きましょう。

 

 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 
 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
 
 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。ヤコブ5:1-8