いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

反逆者からの解放「キリストを目の前に置く」

 

 

 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
 「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。イザヤ1:2-5
 

 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
 この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」と言う。イザヤ65:2-5

 

 人間の罪の性質を、「漢字一文字で表わすとしたら…」として、これまでの記事で、高ぶり、高慢の「高」、分離、分裂、分派の「分」を上げました。
 もう一つ、最もたちの悪い、自分の中に認めざるを得ない性質として、反逆、反抗、反対、違反、謀反、そして反キリストの「反」を上げたいと思います。
 
 家業の牛乳配達を、病の父から引き継ぐように導かれて以来、私は毎日、未信者の両親のもとに通っています。
 そして否応なく、見せられるのは、私たち人間の「とことん反抗する罪の性質」です。
 
 私のDNAの主要な源である母は、「自分は常に正しい」という恐るべき自信を持っています。
 この状態の人に、「口先のことばによって、聖書の語る神の義を教えること」は、ほとんど無益な徒労です。それは「反抗」を常とする罪人の「逆切れ」を招いただけでした。

 

 しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。箴言29:19

 

 しかしその罪が、内側だけの自負にとどまるなら、忍耐して聞き流しておれば良いのですが、他の人にまで「自分が正しいと考えること」を「強要しはじめる」と、もはやそこには平和がなくなります。
 
 そもそも、この世の中に「正しい掃除の仕方」など、あるのでしょうか。
 確かに、「合理的な掃除の仕方」というのは、ある程度、あるかも知れません。
 しかし、それでわずかの「時間が節約できた」からといって、どれほどの益になるのでしょう。
 時間が節約できて、人間関係が損なわれたとすれば、神にとって何の喜びでしょう。
 
 しかし私は長年、まさにこのように独善的なサラリーマン人生を送ってきました。それゆえ主様は、私を職場から駆逐されたのやも知れません。
 今や私は、自分の目の前に、はなはだしい悪臭を放つ罪の性質を見せられ、日々、「ああ主よ。これは私の罪です。」と告白せざるを得ません。

 

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

 

 「家族」とは、逃れることのできない、「肉にとっては最悪」かつ「霊にとっては最善」の訓練の場です。
 私は日々、両親との交わりを通して、人間の罪の性質について、徹底的に考えさせられます。
 「自分を義とする者」は、常に他の人に「反対」し、「言い逆らって」います。

 

 神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求めます。
 彼らは、あなたを自分の前に置いていません。
 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。詩篇86:14-15

 

 この詩篇の作者ダビデは、高ぶる者、横暴な者らは、「神を自分の前に置いていない」ことを悟りました。
 私たちは、「神」を自分の前に置かず、「他の人」を自分の前に置いたとき、不思議と「自分が義人に見えてしまう」のではないでしょうか。
 愚かな私たちは、「他の人の欠点」は、たとえちりであっても目ざとく見つけますが、「自分の欠点」は、梁であっても認めたくないのです。

 

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:9-14

 

 「他の人を自分の前に置いた」パリサイ人は、「自分は義人」だと自任しました。
 「他の人」を介在させることなく、「神を自分の前に置いた」取税人は、「自分は絶望的な罪人」であることを悟りました。

 

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:2-3

 

 主の御名による集まりの中で、聖書に照らして問題を見るとき、私たちは「怒り」を覚えるか、「悲しみ」に沈んで元気を失うかの、どちらかに陥りがちです。
 それは、「他の人を自分の前に置いて」、「他の人を見ている」からではないでしょうか。
 サタンは、「神を私たちの前から遠ざけ」、「他の人を私たちの目の前に置こう」としています。
 「他の人を自分の前に置く」とき、困ったことに盲目な私たちは、「あたかも自分が立派な義人であるかのように」に見え始めてしまいます。

 

 だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:19-20

 

 「人の怒り」は、「自分を義とする」ときに生じます。
 怒りを感じたら、私たちは即座に「自分こそ義人」と自任していないかどうか、よくよく吟味しなければなりません。
 
 「悲しみに沈む」ことは、怒るよりも幸いな態度に思われがちですが、その本質は同じでしょう。
 「神のために悲しんでいる義人である私」に酔いつぶれてしまわないように、一層、警戒しなければなりません。
 
 主イエス様は、感情に押し流されることなく、「罪人たちの反抗」を、「忍ばれました」。
 はずかしめをものともせずに、ご自分が十字架にかけられることさえも、「忍ばれました」。

 

 もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。ローマ9:22-23

 

 私は、これらの「忍耐」や「あわれみ」に関するみことばを、どのように実生活の中に適用すれば良いのか、悩みます。
 「人の知恵」は言います。
 「しかし、ただ忍んでいるだけでは、問題は解決しないのではないか…。」と。
 
 もちろん、それも一面の真理でしょう。
 しかし、「ただ忍んでいるだけでは…」と「言い逆らう」とき、その実、私の肉が「はずかしめをものともせずに十字架を忍ぶ」ことに「反抗」し、自分のいのちを愛しているに過ぎないことを見出すのです。

 

 もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。 ガラテヤ3:21-22

 

 私はしばしば、両親の自己中心的な発言、行ないに対して、「神様はこうすることを望んでおられる」といった「なすべき正しい行ない」を語ってきました。
 しかし、これもまったく無益で、逆効果でした。
 
 罪人の性質は、「反抗」そのものです。「正しいこと」を語れば、必ず「反抗」します。
 そして、たとえ「正しいとわかっていても」、他の人から言われれば、「自分が否定された」、「上から目線で強要された」と感じ、言われれば言われるほど、ますます反抗してやりたくなくなるのです。
 良くても、「そうだけど…」と、「けど…」が、とことん付きまとうのです。
 「けど…」とは、実にさりげなく、巧妙で、まったく悪質な「反逆する」罪の本質です。

 

 主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。

 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。ヨシュア7:10-13

 

 私たちクリスチャンも、しばしば「教えられた」と言いながら、いっこうに悔い改めようとしないことがあります。
 それは、私たちがその罪をまだひそかに愛しているからです。それが罪であることに薄々気付きながら、何らかの「けど…」によって正当化し、その罪のもたらしてくれる快楽にふけっているのです。
 
 その罪をひそかに愛しているなら、私たちは罪の奴隷です。私たちは罪を徹底的に憎まなければなりません。その罪をとことん忌み嫌い、切実に離れたいと願うまでに、その罪のおぞましさと向き合わなければなりません。
 
 私たちは、「反逆者の子どもたち」ではなく、「従順な神の子どもたち」です。
 聖書のみことばの勧めに対して、聖霊の導きに対して、「けど…」と言い続けるなら、私たちは「キリストの弟子」ではなく、「詐欺師」です。
 私たちは、自分たちのうちから、「けど…」を徹底的に聖絶しなければなりません。
 
 私自身、自分が何気なくしていることに対して、他の人から「こうした方が良い」と勧められると、「私がこうしているのは、このような理由からです。」と、すかさず「自分の義」を主張しようとしている自分を見せられます。
 なぜ私は寛容に、「なるほど。」とか「そうですね。」と、言えないのでしょうか。

 

 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。ローマ8:7

 

 たとえそれが的外れな助言に感じられたとしても、「従順な神の子ども」である私は、決して「反抗」すべきではなく、まず「アーメン」と言うべきなのです。
 その的外れに見える助言さえも、「すべてのことが神から発している」のです。
 神様は、私たちが、「常に神を自分の前に置き」、「まず初めに、従順にアーメンと言う」ことができるかどうかを、試みておられるのではないでしょうか。
 もし私たちが、従順な神の子どもたちとして、神のさばきに服し、「まず初めに、従順にアーメンと言う」ことを覚えるならば、「目の前におられる神様に」、次になすべきことを祈り求めるように導かれていくでしょう。

 

 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ヤコブ1:2-5

 

 神の子どもたちの性質は、「従順」でなければなりません。
 主イエス様は、「罪人たちの反抗」を、「忍ばれました」。
 はずかしめをものともせずに、ご自分が十字架にかけられることさえも、「忍ばれました」。

 

 愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。
 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。Ⅱテモテ2:23-26
 

 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。
 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。
 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
 実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。テトス1:5-10

 

 「反対する人たち」、「反抗的な信者」は、どこの集まりにも存在していました。
 しかしパウロは、「長老また監督は、そのような者であってはならない」と教えました。
 「優しく」、「よく忍び」、「柔和な心で」、「慎み深く」、「敬虔で」、「自制心」を持つように教えました。

 

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マタイ9:12-13

 

 「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。(マタイ9:11)」と言ったパリサイ人も、「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。(マタイ9:14)」と言ったヨハネの弟子たちも、「他の人を自分の前に置いて」、「うわべだけを見て」、「罪に定めました」。
 
 彼らは、「目に見える外側の行為」を「自分たちが考えている正しい形に強制しよう」としました。
 しかし主イエス様は、「うわべだけの正しい行ないといういけにえ」は、好まれませんでした。仮に、「外側の行為を矯正」できたとしても、その本質である「心」は変えられないのです。
 
 そもそも主イエス様は、「正しい人」を招くために来られたのではありませんでした。
 主イエス様は、「あわれみ」を好まれました。「あわれみ」こそ、「人の心」を、素直に開き、まったき悔い改めに導くのです。

 

 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
 イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ヨハネ13:8

 

 もし私たちが、主イエス様に足を洗っていただく必要がないほどに「正しい人」であるならば、もはや私たちは主イエス様とは何の関係もなく、主イエス様によって招かれることもありません。
 
 私たちはむしろ「神を自分の前に置き」、「あわれな罪人」として、主イエス様に招かれ続け、日々、汚れた足を優しく洗い続けていただき、主イエス様の恩寵のうちに自分自身を保ち続けましょう。
 
 私たちの主イエス様は、「このように」罪人を招くために来てくださいました。
 そして、「このように」罪人たちの反抗を忍んでくださいました。

 

 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。Ⅰペテロ2:19-25

 

 キリストは、善を行なって、苦しみを受け、耐え忍ばれました。
 私たちは、「キリストの打ち傷のゆえに」、いやされました。
 
 私たち罪人には、到底、理解できないほどの奇しい神のみわざです。
 しかし、私たちは理解できないからと言って、神のみことばに反抗する理由にはなりません。
 私たちは、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なければなりません。
 
 私たち罪人は、「自分のなすべきこと」を「他の人から先に言われた。強要された。」と感じると、条件反射的に「反抗」します。
 けれど、もし「自分のなすべき正しいこと」を「自分自身で気付く」なら、「自ら進んで」、「心から喜んで」、行なうようになります。

 

 こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。Ⅰ歴代誌29:9

 

 どうしたら「自分自身で気付く」ことが、できるようになるのでしょう。
 それは、聖書のみことばと、みことばを実践している兄弟姉妹の模範を通してです。
 キリストは、罪人たちの罪を負い、反抗を忍ばれるという模範を示されました。
 私たちは、美しい模範を見るとき、なすべき正しいことをわきまえ知ります。
 主イエス様の「忍耐」と「あわれみ」の結晶である御血は、罪人たちの良心を洗いきよめ、「自分から進んで、キリストに従うしもべたち」を生み出しました。

 

 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。ヘブル9:11-14

 

 主よ。あなたの道は、私たちの思いより、はるかに高く、想像も及びません。
 しかし、私たちは確かに、キリストの打ち傷のゆえに、いやされたのです。
 主よ。あなたの道を愚かな私たちに知らせ、反抗する罪の性質から、私たちを聖め分かってください。
 私たちは、真にあなたのご用に役立つ者となりたいのです。
 主よ。あなたの道に、あなたのしもべたちを招き、導き、聖め、日々、あなたのご性質に似た者へと、新しく造り変えてください。そして、あなたのご計画されているすべてのみわざに、整えられたしもべたちを自由にお用いくださいますように。

 

 私はいつも、私の前に主を置いた。
 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。詩編16:8-11