いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「敬虔の奥義」とは、へりくだって現われること

 

 

 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
 「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」Ⅰテモテ3:16

 

 「敬虔」とは、何でしょうか。
 そう問われて、即答できる日本人は、今、どれくらいいるでしょう。ほとんど死語に近いほど、現代の私たちには馴染みのない言葉です。
 「敬」は、「うやまう」と読みます。調べてみると、「虔」は、「つつしむ」と読むようです。
 つまるところ、「敬虔」とは、「うやまい、つつしむ気持ちの深いさま」ということになります。
 
 終わりの時代にあって、地上のあらゆる権威は軽んじられ、人々は目に見える人をも恐れることがないのですから、ましてや目に見えない神を敬い、畏れる思いなど、消え失せているでしょう。
 
 さて、私たちクリスチャンは、この「敬虔」という言葉の意味を、どれくらいの深さで受け止めているでしょうか。
 恐らくそれは、「愛」と同じように、際限のないもので、主様との交わりを通して、ひとりひとりのうちで、日々、深められていくものなのでしょう。
 
 「敬虔」とは、うやまい、つつしむ「気持ち」であり、「内心」に関わる事柄です。それは基本的に、他者には見えません。
 しかし、「敬虔の奥義」は、言います。
 「キリストの敬虔」は、「現われ」、「見られ」、「宣べ伝えられ」、「信じられ」、「上げられた」と。
 私は今、「敬虔の奥義」とは、「へりくだって現われる」ということなのではないかと、思い巡らせています。

 

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:6-11

 

 神の御子キリスト・イエスは、父なる神様を、とても深く敬われたので、ただ御父のみこころに従われ、ご自分をお捨てになり、「人としての性質をもって現われ」てくださいました。

 

 父なる神様は、なぜ御子イエス様が、地上に「現われるように」望まれたのでしょう。
 それは、愚かな私たち人間が、「見えないもの」を知り、信じることに疎く、「現われ」なければ悟ることのできない、心の鈍い者だからではないでしょうか。

 目に見えないものが「現われる」ためには、必ず目に見える「媒体」が必要です。御子イエス様は、その偉大な「媒体」の任を、御父のみこころに従って、自ら担ってくださいました。

 

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。ヘブル1:3

 

 キリスト・イエスは、「神の本質」を完全にお持ちになって、「へりくだって現われて」くださいました。
 「現われて」くださった目的は、私たちに神のご本質を「明らかに示し」、よくわからせ、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。マルコ4:22
 

 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。ローマ8:19

 

 キリストは、「肉において現われ」てくださいました。
 私たちクリスチャンも、「神の子ども」、「神に愛されている子ども(エペソ5:1)」、「光の子ども、昼の子ども(Ⅰテサロニケ5:5)、「従順な子ども(Ⅰペテロ1:14)」として、「明らかに」、「現われ」なければなりません。
 それは、私たちの「神を敬い、畏れる敬虔な生き方」を通して、神のご本質を「明らかに示し」、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。Ⅱコリント4:6-7

 

 私たちは、光の子どもらしく、やみの中から輝き出ましょう。
 土の器に過ぎない、私たちの朽ちていく身体は、決して輝くことはありません。
 この見栄えのしない土の器の中に隠されている、キリストの御霊が、輝き出るのです。
 
 私は老兄弟姉妹を愛しています。
 何の希望もない老齢になって、真に輝くことができるのは、キリストの御霊を持つクリスチャンだけです。
 老兄弟姉妹の深く刻まれたしわや、しみや、白髪の中から、にじみ出る、主様にある希望と喜びを見ることは、何と素晴らしいことでしょう。

 

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Ⅱコリント12:9

 

 輝き出るために、私たちは「肉に従って」奮闘する必要はありません。
 キリストの御力は、「弱さのうちに」、「完全に現われる」のです。
 私たちが、神の御前にへりくだり、自分自身の絶望的な無力さを認め、真摯に受け入れるなら、この何の希望もない無力な私たちの弱さのうちにこそ、キリストの力は完全に働いてくださいます。
 弱さのうちに「完全に現われてくださる」キリストの力を信じ、信仰の意志を持って「キリストに従い」、与えられている賜物を、忠実な管理人として、注意深く用いましょう。

 

 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。ヘブル10:35-11:3

 

 私にとって、「信仰」とは、「realize(事実化)すること」です。
 つまり、「聖書に書かれている神の事実」を、「目に見える形に実際化すること」です。「現わすこと」です。
 何ごとも、「現われ」なければ、はっきりと、「明らかに」、わかりません。
 
 目に見えている事実とは、「real(事実)」のうちのほんの一部分であり、単なる「reality(事実感)」に過ぎません。
 しかし、神を知らない人々は、サタンによって目を覆われているので、単なる「reality(事実感)」を、「real(事実)」のすべてだと思い込まされています。
 
 私たちクリスチャンは、地上にあって、「目に見えない神のみことばの真実」を、「realize(事実化)」していく責任を負っています。
 これこそ、「敬虔の奥義」、自分を捨てて、「キリストに贖われ、新しく造られた者」として、「現われる」ということではないでしょうか。
 

 改めて、「realize」の訳を調べると、非常に興味深いものがありました。

① (希望、 理想、 計画などを)実現させる。現実化する。達成する。※しばしば受身で用いる
② (事実などを)悟る。はっきり理解する。了解する。実感する。※進行形なし
③ まざまざと如実に見せる。示す。写実的に表わす。
④ (有価証券・不動産を)現金に換える。
 
 御霊によって、読んでいくと、信仰の本質が照らし出されるような気がしました。
 特に、※の部分は、意味深です。

 

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。

 私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。エペソ1:7-12

 

 「① 実現される。現実化する。達成する。」の「※しばしば受身で用いる」について言えば、「みこころによりご計画のままをみな実現される方」は、神である主です。私たちが、肉の努力によって実現するのではなく、確かに神ご自身が「実現」されます。
 私たちは信仰の意志を持って、ご計画のままをみな実現される方に従い、「受け身」の立場に立つことが求められます。

 

 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。マルコ10:46-52

 

 「②悟る。はっきり理解する。了解する。実感する。」の「※進行形なし」について言えば、確かに信仰には、「進行形」はありません。
 「今、徐々に、信じつつある。」とか、「半分、信じた。」という状態はあり得ず、それはまったくの「無信仰」であり、不信仰です。
 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。(マタイ14:31)」などの「信仰が薄い」という表現の言語は、「不信仰」のニュアンスのことばであると読んだことがあります。

 信仰とは、あるか、ないかです。100%信じていなければ、信じていないのです。

 

 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。
 みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
 信じた私たちは安息にはいるのです。ヘブル4:2-3

 

 神のみことばの約束通り、信じた私たちは、すぐさま、安息に入ります。
 これは、生けるまことの神の約束のことばです。
 私たちは、思い煩って、不安の荒野をさまい続けるべきでしょうか。信じて、安息に入るべきでしょうか。
 これは、私たちが自分の自由意思で、選択できる単純なことです。

 

 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。黙示録3:15-16

 

 神様は、「中途半端なこと」、「不徹底」を忌み嫌われます。

 

 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」Ⅰ列王記18:21

 

 私たちは、はっきりしましょう。
 この世と中途半端に妥協し、不徹底であり続けるならば、神のご本質は何ら現わされず、私たちは誰をも助けることができません。

 

 だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。ヤコブ2:14
 

 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。ヤコブ2:26

 

 暗やみに座っている人々に、あのクリスチャンは、「やみなのか、光なのか、よくわからない。」、「神に信頼しているのか、人により頼んでいるのか、よくわからない。」と言われるような歩みであっては、父なる神様がほめたたえられることはありません。

 

 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』使徒26:16-18

 

 キリストは、「敬虔の奥義」に従って、まず私たちに「へりくだって現われて」くださいました。
 それは、先に救われた私たちを通して、彼らの目を開くためです。
 私たちは、キリストの「敬虔の奥義」に従い、「神のご本質」が、「明らかに」、「現わされる」ように、御霊に導かれて進みましょう。
 私たちは、生きておられる、聖書の神の真実のうちにあるのです。

 

 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。
 この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
 キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。Ⅱテモテ1:9-12