いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

分離からの解放「キリストのからだの一」

 

 

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。創世記1:1-4

 

 創世記によれば、神が初めに造られたものは、「光」でした。
 (天は第二日に、地は第三日に、造られたものと理解できます。)

 

 光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。Ⅱコリント6:14

 

 「光」と「暗やみ」には、何の関わりもありません。どんな共通点も見出されません。
 神は、「光」と「やみ」を区別されました。
 「光」と「やみ」は、完全に分離しています。
 
 前号の記事で、サタンに由来する「肉の性質」を、一つの文字で表すとしたら、高慢、高ぶりの「高」であると書きました。
 もう一つ上げるとすれば、分かれる、分離する、分裂、分派の「分」も、的確な文字の一つと言えないでしょうか。

 

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:5

 

 「光」が来たとき、「やみ」は恐れ退きました。
 「やみ」は、「光」の中に立ちおおせません。
 「光」が、「やみ」から離れ去り、分かれて行ったのではありません。
 「やみ」のまっただ中に、「光」は正々堂々と現われて、「光」が来たとき、「やみ」が「光」から退き、自ら「分離」していったのです。これが「やみ」の敗北でした。

 

 わたしと父とは一つです。ヨハネ10:30
 

 聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。ヨハネ17:11

 

 神のご性質は、「一」です。
 神のご性質の中に、「分裂」や「矛盾」はありません。神のご性質は、「まったき一」です。
 しかし、アダムの罪のゆえに、私たちのうちには「肉の性質」が働き、それは絶えず、私たちの思いを「一」を破壊する「分離」へと向かわせます。

 

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。創世記3:7

 

 これは、聖書に最初に登場する「自分」ということばです。
 「自分」とは、何でしょうか。
 日本語では、「自ら」を「分ける」と書きます。
 いったい何から、「自ら」を「分ける」のでしょうか。
 それは、「自ら」を、「他者」とは別個の「独立した人格」として、「分ける意識」ではないでしょうか。
 
 アダムが最初に罪を犯した時、この「神から分離した意識」、「神から独立した意識」、すなわち「自我」が目覚めたのではないでしょうか。
 「神から分離」した、「自分」が始まった時、彼らは、「自我意識」に悩み苦しむ者となりました。
 彼らの主語は、「神である主」から、「自分」に置き換わりました。

 

 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」創世記3:3

 

 善悪の知識の木の実を食べる前、女はまだ「神意識」の中にあり、「神」を主語とし、曲がりなりにも「神のことば」を根拠として、生きていました。

 

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:4-6

 

 しかし、蛇のことばに誘惑された女は、「神意識」から離れ、「自我意識」に従って、行動しました。

 

 「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」創世記3:10

 

 こうしてアダムは、「神である主」ではなく「自分を主語とし」、「神のみこころ」ではなく「自分の欲望に従って」、「神のために」ではなく「自分のために生きる者」となりました。
 「神から分離」した彼らは、光の中に立ちおおせず、恐れて、隠れました。
 そして、「神である主が」、私たちを守ってくださるという安息の生活から、「自分で」、「苦しんで子を産まなければならない。」「一生、苦しんで食を得なければならない。」「ちりに帰らなければならない。」生活へと転落しました。

 

 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。創世記3:22-24

 

 彼らは、神から「罰としてエデンの園から追い出された」のではなく、むしろ自らを、「神から分離」して、「やみ」を選び、「光」から退きました。
 神である主が、彼らをエデンの園から追放されたのは、「自我意識」に悩み苦しむ、「罪のからだ(ローマ6:6)」、「死のからだ(ローマ7:24)」を持ったままで、「永遠に生きないように。」という神のあわれみでしょう。

 

 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。創世記5:22
 

 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。創世記6:9
 

 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。出エジプト記34:28

 

 「肉の性質」は、「神から分離」しようとします。
 しかし彼らは、神である主とともに、歩むことを選び取りました。

 

 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。ヘブル11:24-25

 

 そして、モーセは、ただ「神である主とともに」歩んだだけではなく、「神の民とともに」、苦しみながら歩むことを選び取りました。
 「神の民」は、実にうなじのこわい民でした。「神の民とともに歩むこと」は、「神である主とともに歩むこと」より、はるかに厳しく、絶望的なことでした。

 

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。出エジプト記31:18
 

 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。出エジプト記34:1

 

 かつて主が、モーセに授けられた律法は、「二枚の板」に書かれていました。最初の石の板も、二度目の石の板も、「二枚」でした。それは「一」ではなく、二枚に「分かれて」いました。
 このことは、人は律法によっては、決して「神と一つ」にはなれない、「完全になれない」ことを暗示していたのではないでしょうか。
 律法は、決して人を、「一」に導くことができません。律法は、ただ人をさばき、「分ける」ことができるだけです。律法は、決して人を「救い」に導くことができません。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。

 信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。ヨハネ3:16-21

 

 律法によっては、決して「神と一つ」になれなかった私たちは、御子の贖いを信じる信仰によって、「神と一つ」とされました。
 あわれみ深い神様は、一切のさばきを御子にくだされ、私たちには、「さばき」の代わりに、「救い」が、「永遠のいのち」が、与えられました。
 私たちクリスチャンは、この御子にあって、「神と一つ」に集められました。

 

 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。ガラテヤ3:28

 

 こうして、神の御霊を与えられた私たちは今、「肉に従う」自由も、「御霊に従う」自由も与えられています。
 肉に従えば、「分離」の道に向かい、御霊に従えば、「神の一」に向かいます。

 

 なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。マルコ8:17-18

 

 私たちの「耳は二つ」、「目は二つ」です。
 神である主は、盲目な私たちが、よく見ることができるように、「二つの目」を授けてくださり、絶えず、「見よ。」「見なさい。」と、呼びかけておられます。
 そして、耳しいた私たちが、よく聞くことができるように、「二つの耳」を授けてくださり、絶えず、「聞け。」「聞きなさい。」と、叫び続けておられます。

 しかし、私たちの「口は一つ」、「舌は一つ」、「心は一つ」、「かしらは一つ」です。

 

 独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。Ⅰコリント7:32-34

 二心の人たち。心を清くしなさい。ヤコブ4:8
 

 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。ヤコブ3:9-10

 

 「肉の性質」は、神から分かれようとします。
 神の御霊を与えられ、クリスチャンとなってからも、「肉の性質」は、私たちのうちに働きかけ、「自分の都合によって」、神から離れようとします。
 こうして、時と場合によって、神に従ってみたり、自分の都合に従ってみたりする、「分かれた心」、「二心」が生まれます。
 「神をほめたたえる舌」と「神にかたどって造られた人をのろう舌」という、「分かれた舌」、「二枚舌」が生まれます。
 神から「分かれた」、「異なったもの」、「似たようなもの」、「偽物」が、聖い神の民の中に入り込もうとすることは、なんと忌まわしいことでしょう。
 私たちは、信仰の意志を持って、「聖なる一」に留まり続けなければなりません。

 

 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」ルカ15:1-2

 

 「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Ⅱコリント6:15)」、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」、「汚れたものに触れないようにせよ。(Ⅱコリント6:17)」と言われた主イエス様は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにされました。

 

 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。コロサイ1:19-22

 

 それは、主イエス様が、彼らの罪から影響を受けて、汚されるためではなく、ご自分の「血によって平和をつくり」、彼らを「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるため」でした。
 キリストは、ご自分の苦しみを通して、「キリストのからだの一」を生み出されました。ご自身の尊い血を流して、「やみ」の中に分離していた罪人たちを、「キリストのからだの一」に集めてくださいました。
 
 私たちは、世の汚れから影響を受けることを恐れる必要はありません。
 もし私たちが、「聖なる一」にとどまり続けるならば、聖められることを好まず、「やみ」を愛し続けるものは、自ら「光」から退くでしょう。

 

 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。ルカ15:3-7
 

 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。ローマ12:15-16
 

 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。ピリピ2:17-18

 

 キリストは、たったひとりの罪人の悔い改めを、大いに喜ばれます。友だちや近所の人たちを呼び集めてまで、「いっしょに喜んでください。」とお願いされます。
 「いっしょに」、「ともに」は、「神の一」の性質です。
 ある兄弟が言われました。「宝くじで一億円当たった人と、いっしょに喜べる人がいるでしょうか。」
 肉の中には、「いっしょに」喜ぶ性質は宿っていません。

 

 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。エペソ4:4-6

 

 「一」は、ただ神にある性質です。
 私たちは、「キリスト・イエスにあって、一つからだ」とされました。
 私たちが「キリストのからだの一」を選んだのではありません。
 自己中心的で、自分勝手な私たちの肉の中には、「分離」、「独立」を好む性質しかありません。他者に「私の考える一」を押し付ける性質はあっても、「神の定められた一」に従う力はありません。

 

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

 

 しかし、キリストは、こんな私たちをともに十字架につけ、葬り去ってくださいました。
 今はキリストが私のうちに生きておれ、私たちはキリストにあって、一つからだとされました。
 かつて「神から分離」、独立し、勝手気ままに罪の中、やみの中を歩んでいた「自分」は、葬られました。

 

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。マルコ8:34-35

 

 神から、「自ら」を「分けた」、「自分」という「自我意識」は、すでに葬られたものです。
 私たちは、「この自分」を捨てることなしに、決して「神の一」に行くことはできません。
 「神の一」は、「この自分」の中には、ないからです。
 
 しかし今、神と「新しく造られた(Ⅱコリント5:17)」私たちは、一つです。
 私たちの「かしら」は、キリストです。私たちの「かしら」にある意識は、「神意識」です。
 私たちには、ただ一つの「キリストの心がある(Ⅰコリント2:16)」のです。

 

 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 創世記22:9-18
 

 

 アブラハムは、「自分」と等しい、むしろ「自分のいのち」以上に尊いと感じしてたであろう「自分のひとり子」を、神の求めに従ってささげ、神を礼拝しました。
 アブラハムは、みことばに従い、「自分を捨て」、神である主を礼拝しました。
 そして、「神のためにいのちを失った」アブラハムは、「そのいのちを救われ」、さらに、その子孫を通して、地のすべての国々に祝福が及びました。
 
 私たちは、事実、キリストのうちにあり、「神の一」の中にいます。
 しかし、この「神の一」は、地上においては、私たちの意志によって、実際のものとされます。
 私たちは、堅く信仰に立ち、意志を用いて、「神の一」を地上で具体化する責任を負っています。

 

 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
 そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 

 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
 それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。ヨハネ17:20-23

 

 「キリストのからだの一」は、キリストの祈りによって、支えられています。
 キリストは、「キリストのからだの一」を通して、「父なる神様が、キリスト・イエスを遣わされたことを、世が信じること」、「父なる神様が、キリスト・イエスを愛されたように、人を愛されたことを、世が知ること」を望んでおられます。
 私たちは、「キリストのからだの一」を意志を用いて、熱心に保ち、祈り求めましょう。

 

 召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。エペソ4:1-3
 

 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。ピリピ2:1-4

 

 「神の一」を保つには、神から離れようとする「自分」を捨てなければなりません。
 しかし、「自分」を捨てる者は、さらに大きな祝福を受けるのです。
 私たちは、日々、「自分」を捨て、真に価値のあるものを、選び取って行きましょう。
 どうか、惜しみなく施すことのできる主様が私たちに、真にすぐれたものを見分ける目と、それを選び取る力を与え続けてくださいますように。

 

 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。使徒2:46-47
 

 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。使徒4:31-3
 

 みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。使徒5:12-14