いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

自分自身が「健全な教え」の模範となる

 

 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。
 わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。
 それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
 実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。テトス1:7-11
 

 ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。
 きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。
 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。テトス1:13-2:1

 

 パウロは、人々の「信仰を健全にする」ことに、常に心を砕いていました。
 それだけ、「健全な教え」を妨げようとするサタンの働きかけが巧妙で、盛んであることを、身にしみて感じていたのでしょう。
 それゆえパウロは、信者である「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20:30)と、油断しないように、厳しい警告を残しました。
 
 いったいなぜ、真理の御霊をいただいているクリスチャンが、「健全な教え」からそれていってしまうのでしょうか。
 
 それは、「私は知恵があり、私には間違いがない。」という思い込み、無謬性から来るのではないでしょうか。

 

 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。エゼキエル28:17
 

 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。イザヤ14:13-15

 

 私たちの「肉の性質」は、アダムの罪に始まり、非常に堕落しています。
 それは「サタンの性質」そのものであり、「神に対する不敬虔」に始まる、「自分を神よりも高く上げようとする性質」です。
 「肉の性質」を、一字で表わすならば、「高」という字は、もっとも的確な字のひとつと言えないでしょうか。高ぶり、高慢は、神に対する不敬虔の象徴です。
 「高」という字にふさわしいお方は、「聖なるいと高き所」にお住まいになる、「いと高き神」のみです。

 

 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。Ⅱ列王記12:32、14:42、15:42、15:35

 

 「肉の性質」は、「自我」を養い、「自己」を高め、「自分」が称賛されることを、「素晴らしいこと」として、私たちを駆り立てようと働きかけます。
 そして光の御使いにさえ変装するサタンは、神の義ではなく、「自分の義」を立て、「自己を高く上げようとする道」が、あたかも「神のため」であるかのように思い込ませます。
 
 私たちクリスチャンはみな、神のために生きたいと願い、神のために生きていると思っています。
 それゆえ誰も、自分が「健全な教え」にそむいているなどとは、夢にも思いません。
 この「自覚のなさ」こそが、私たちを「健全な教え」から遠ざける、もっとも恐ろしい罠ではないでしょうか。
 
 いったい私たちは、どうしたら「健全な教え」をわきまえることができるのでしょう。
 
 それは私たちが、たとえ信仰生活がどれほど長くとも、常に聖なる畏れを持って、「私は本当に、健全な教えをよくわきまえているだろうか…。」と、御霊の助けによって、自己吟味し続けることによるのではないでしょうか。
 聖なる畏れを持って、父なる神様、主イエス様、同じ聖霊をいただいている兄弟姉妹との交わりを保ち、聖書全体に親しむならば、愚か者に過ぎない私たちの多くの勘違いや誤りは、たとえ遅々としていても、あわれみ深い主様によって、必ず、修正されていくでしょう。

 

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。Ⅰペテロ5:5-6

 

 「健全な教え」かどうかの一つのテストは、「他の人からの助言のことば」に対する反応ではないでしょうか。
 それが、「肉の性質」に由来していれば、他の人の助言を、「自分を助けることば」として、受け止めることができません。それは、自分に対する悪意に満ちた攻撃、非難、批判に聞こえ、反発と怒りという反応を引き起こします。
 そして、「自分の義」に固執し、「どうしてこんなに頑張っている自分を正当に評価してくれないのか。」と泣き叫びます。

 

 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。ローマ10:2-3
 

 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。エペソ4:18

 

 「私たちの義」は、神からのものです。
 自力で、「自分自身の義」を立てる必要はありません。
 私たちは、誰も完全ではありません。悲しいことに、私たちはいつでも、無知ゆえに、善意で、健全でない教えを語ってしまう可能性があります。
 ですから、他の人の助言には、常に細心の注意を払って、謙虚に耳を傾けなければなりません。
 たとえ攻撃されているように感じられたとしても、真に主を畏れることを学んだ者ならば、そこに主様の御手を見出し、冷静に聞くことができるでしょう。

 

 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。ヨハネ7:16
 

 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。Ⅰコリント4:7

 

 「私たちの知恵」は、神からのものです。
 それが、本当に「健全な教え」ならば、「真理の御霊によって、教えられた神の知恵」です。「自分の努力によって、獲得した知恵」ではありません。

 

 だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:19-20

 

 もし、その知恵のことばが、「他の人に非難された」のであれば、神が侮辱されたのであって、語った人が侮辱されたのではありません。
 どのような批判のことばを受けたとしても、腹を立てる必要はありません。
 神を侮辱したのであれば、その人は、人の心のすべてをご存じの神ご自身から、その報いを受けるでしょう。

 

 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。
 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。
 聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。Ⅱテモテ3:12-17

 

 私たちクリスチャンは真理の御霊をいただいていますが、神ではありません。私たちは誰も、聖書に明らかにされていない点について、「これが真に健全な教えである。」と、断言して人に押し付けることはできません。
 私たちはそれぞれ、人の言葉によってではなく、聖書全体と御霊の助けによって、「自分で学んで確信したところ」にとどまっているべきでしょう。
 聖書に明らかにされていない点については、誰も「正解」は持っていないのですから、自分の確信を保ちつつも、他の人のことばに対しても、常に寛容に、心を開いて、耳を傾ける姿勢があれば幸いでしょう。
 聞く耳を持つ者は、いつも祝福を受けます。

 

 幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。箴言28:14

 

 私たちは、いつも愚かな自分をわきまえ、主様を畏れて、絶えず、聞く耳と、悟る心とを、祈り求めましょう。

 

 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。
 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。Ⅰテモテ4:12-16
 

 同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。
 また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。テトス2:6-8

 

 「健全な教え」かどうかの、もう一つのテストは、「健全な教え」にふさわしい実を結んでいるかどうかです。
 もしそれが、真に「健全な教え」であれば、それを証明する「健全な歩み」、「健全な行ない」が、必ず伴ってくるはずです。
 それを語っている人自身の歩みは、何よりも雄弁に、「健全な教え」かどうかを物語ってくれます。

 

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ5:22-23

 

 「健全な教え」のために、心を砕き続けてきたパウロが晩年、テモテやテトスに教え諭したのは、「自分が模範となりなさい」ということでした。
 パウロは、テモテを信頼していましたが、決して、立派でも、完全でもない「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい」と、警告しました。
 そして、あくまでも「自分自身にも、教える事にも」、注意深く、気をつけ続けるならば、「自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救う」ことになると教えました。
 
 「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範となる」、「すべての点で良いわざの模範となる」ことは、容易なことではありません。
 しかし、もし私たちが「他の人に語っておきながら、自分では行なっていない」ならば、そのことばは空しく、誰も真面目に耳を傾けようとはしないでしょう。

 

 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。ヤコブ3:13-18

 

 「健全な教え」を守りたいと願う者はみな、まず自分自身に、その「健全な教え」を実行するように教えなければなりません。
 私たちは究極的には、ただ自分自身を教えることしかできないのではないでしょうか。
 他の人には、ことばしか伝えられません。教えてくださるのは、その人のうちにある御霊であり、成長させてくださるのは神なのです。
 
 神に感謝すべきことに、私たちの責任の範囲は、決して広すぎるものではありません。
 私たちは、ただ「自分を」教えましょう。自ら率先して、御霊に従って歩むことによって、自分を「健全な教え」の模範としていただきましょう。
 そこにキリストに似せられた麗しい模範があるならば、それは世の光となり、自分自身も他の人をも救うでしょう。
 
 もし、そこを歩めないのならば、それは「健全な教え」と、どこか異なっている可能性を疑うべきでしょう。
 「健全な教え」に歩みたいと、真に願い続けるならば、主様はそのことも明らかに教えてくださるでしょう。

 

 あわれみ深い、父なる神様。どうかわきまえのない私たちが、「健全な教え」を悟り、キリスト・イエスにある「健全な信仰」のうちに、守られるように、あわれんでください。

 あなたは人の姿をとられた主イエス様を地上にお遣わしになり、まず私たちに「模範を示し(ヨハネ13:15)」、その足跡に従うようにと「模範を残(Ⅰペテロ2:21)」してくださいました。
 それゆえ、私たちは模範を見て、神様がどのようなお方であり、何が神様の御目にかなうことかを知ることができました。心から感謝します。

 私たちは、「健全な教え」を宣べ伝え、「健全な信仰」に歩まれた、主イエス様の模範にならいたいのです。あなたは私たちの弱さを良くご存じです。
 どうかあなたが、弱さと愚かさに満ちた私たちを、悔い改めのない心と、かたくなさから遠ざけ、キリストのうちに堅く保ち、キリストの模範の道に歩ませてください。
 そうして、ご自身のご栄光を現わしてください。そして、御救いを信じ、受入れ、キリストに従う弟子たちが、さらに多く起こされますように、あわれみ、助けてください。

 

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。ヤコブ1:21-25