いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

善悪の知識からの解放「主に聞き従う」

 

 

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16-17

 

 先日、若い姉妹との交わりの機会が与えられました。
 驚いたことに、クリスチャンホームに生まれ、バプテスマを受けて数年経つその姉妹は、最近、初めて聖書通読を始められたとのことでした。
 実は私も人ごとではなく、聖書通読を始めたのは、不信仰の数年を経た後でした。

 

 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネ6:63

 

 霊であり、いのちである聖書のみことばを偏食するクリスチャンは、永遠のいのちを持っていても、まっすぐに成長することが困難です。
 聖書通読は、聖書全体に示された神様のみこころをわきまえ、みことばの曲解や、偏った見方から守ってくれます。
 
 さて、その姉妹が、こんな疑問を口にしました。
 「あんなに殺人ばかりしていたダビデが、神様に祝福されるなんて…。」
 
 その疑問は、まさに私たちの集まりにある問題を象徴していました。
 それは、「善悪の知識で、物事を判断する」という、この世的なものの捉え方でした。

 

 ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」ルカ20:22

 

 「このことは善でしょうか。それとも悪でしょうか。」
 「それは、みことばで否定されていないし、悪いことではないから、行なっても差し支えないだろう。」
 「これは、みことばに合致した善いことだから、ぜひ行うべきである。」
 
 このような「議論」を聞くたび、憂いと悲しみに胸が押し潰されそうになります。
 「韓国の教会は祈り、台湾の教会は賛美し、日本の教会は議論する。」と聞いたこともあります。
 
 マークシート方式の試験で鍛えられた日本人は、「善か悪か」が明確で、「唯一の正解」を知っていないと不安になってしまうのでしょうか。
 「議論」が始まると、当然の如く、弁の立つ「この世の知者」が優位に立ち、「賢く見える意見」、「もっともらしい意見」がまかり通ってしまいます。
 
 「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた(Ⅰコリント1:27)」のではなかったでしょうか。
 「家を建てる者たちの見捨てた石。(マタイ21:42)」こそ、礎の石になったのではないでしょうか。
 
 私は、その姉妹に、お話ししました。
 「殺人=悪」、「伝道=善」というのは、「善悪の知識」ではないでしょうか。

 

 こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。Ⅰ列王記11:6

 

 大切なことは、行なっていることが「善か悪か」ということではなく、「神様に従っているかどうか」ではないでしょうか。
 ダビデは、「多くの悪者を殺した」からではなく、「主に従い通した」ゆえに、神様から称賛されました。

 

 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」Ⅰサムエル15:19-23

 

 サウルは、聖絶すべき物の最上の物をいけにえとしてささげることは、「善いこと」だと思いました。
 しかし、主様のみこころは、「主の御声に聞き従うこと」でした。
 「従わないことは偶像礼拝の罪」でした。それは、「自分の思い」、「自分の考え」を偶像の神とすることでした。

 

 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。使徒16:6

 

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」というのは、確かに主イエス様のご命令です。
 しかし、ここでは、聖霊はみことばを語ることを禁じられたのです。
 
 「善悪のマニュアル」があって、そのマニュアル通りに、ことを行なうことは、非常に合理的で、ミスが少なく、効率の良いことのように思われます。
 しかし主様は、私たちに、そのように「デジタルな機械」となることを望んでおられるのではありません。
 もしそうであれば主様は、人間よりもはるかに忠実な「機械」をお造りになったことでしょう。
 
 聖書は、「善悪のマニュアル」ではありません。
 善か悪かは、神様がお決めになることであり、それは人間のパターン思考のように一様ではありません。
 十戒では、「殺してはならない(出エジプト20:13)」と言われた神様は、サウルに「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。(Ⅰサムエル15:3)」と言われたのです。
 
 律法学者やパリサイ人たちは、与えられた律法を、「善悪のマニュアル」のように扱いました。
 彼らは、「善悪のマニュアル」通りに、実行していたかも知れません。しかし、「マニュアル」と化してしまった律法は、もはや神様のみこころからかけ離れた、いのちのない空文でした。

  
 あるファーストフード店では、店員はすべてマニュアル通りに実行します。
 「子どもが、粗相をして飲み物を落としてしまったら、新しい飲み物を与えるように。」と、マニュアルに記載されているので、店員はその通りに実行しましたが、子どもが、「お姉さん、ありがとう。」とお礼を言っても、店員は知らん顔で働いていたそうです。
 マニュアルには、「子どもがお礼を言ったら、どういたしましてと笑顔で応える。」とは、書かれていなかったからです。
 

 神様の与えられた律法の本質は、「愛する心」です。
 「神様の愛のみこころ」を、具体化したものが、律法でした。
 しかし、「知識と真理の具体的な形(ローマ2:19)」として与えられた律法は、「善悪のマニュアル」のような取り扱いを受けてしまいました。
 そして、「善悪のマニュアル」と化してしまった律法は、「守らなければならない重荷」、「忌み嫌われるもの」となってしまいました。

 

 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。マタイ5:17-20

 

 主イエス様は、「律法の本質を成就するために」、「律法の心を回復するために」、地上にお越しくださいました。
 「律法学者やパリサイ人の義」とは、「律法の外面」をマニュアルチックに守ることでしょう。

 

 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:35-40

 

 主イエス様は、律法全体の本質を、二つの戒めによって要約されました。
 それは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めであり、「神と人とを愛する」ということに要約されます。

 

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34
 

 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。Ⅰヨハネ3:11

 

 主イエス様は、「あなたがたは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という戒めを与えられました。
 実は、それは、「新しい戒め」ではなく、「初めから聞いている戒め」の本質でした。
 律法の本質は、「神様を愛するがゆえに、神様のみこころに従い、主イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと」でした。

 

 他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。ローマ13:8
 

 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。ローマ13:10
 

 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ5:14

 

 「愛する」とは、心のうちのことです。それは本質的に、目で見ることができません。
 「愛するという律法の心」を守っているかどうかは、究極的には、他の人にはわかりません。本人の他は、ただ神様だけがご存じです。
 
 「愛するという律法の心」を守ることは、外面で「善悪のマニュアル」を守ることより、はるかに高いハードルです。
 しかし、これこそ「善の実行マシーン」としてではない、「生きた神の子ども」としての、「生けるまことの神様」との愛の交わりの場です。
 私たちは神様のみこころがわからなければ、神様に従うことはできません。
 それゆえ、私たちは神様のみことばを読み、神様のみこころを求めて、絶えず、祈ることが必要になります。
 神様は、私たちとのその交わりを、何よりも望んでおられます。

 

 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。
 あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。申命記13:3-4

 

 「もしみこころでないなら、神様が止められる。(止められないなら、神様は許しておられる)」といった、あたかも生けるまことの神様を知らない民のような、愚かしい発言を、耳にすることがあります。
 しかし、神様は、私たちが「本当に神、主を愛するかどうか。神、主に聞き従って歩むかどうか。」を試みられることがあります。

 

 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」創世記22:15-18

 

 私たちが、与えられている自由意志を用いて、本当に主様を愛し、「自分の考え」に従ってではなく、主様に聞き従って歩むことを望むなら、生きておられる主様はみこころをお示しくださいます。
 確かに耳しいた私たちは、すべてのことについて、主様の御声を聞き分けられないかもしれません。
 けれども、だからと言って、「聞こえないから、突き進むしかない。突き進んでも良い。」というのは、神を罪に定める「開き直り」であり、自分の至らなさを棚に上げた傲慢ではないでしょうか。
  
 心を尽くしても、主様の御声を聞き分けられないときは、みことばに堅く立ち、主様を愛し、主様を畏れかしこみ、おののきつつ、絶えず、主様にすがりながら、注意深く進みましょう。
 主様は人の心のすべてをご存じでいらっしゃいます。
 あわれみ深い主様は、私たちの主様を畏れる心をご覧になり、その都度、みことばを通して、また、環境を通して、必要な導きを与えてくださいます。
 主様は、耳しいた私たちの失敗をさばかれることはありません。ただその心をご覧になり、その心に従って報いてくださいます。

 

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。ヨハネ14:26
 

 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。ヤコブ4:6-7

 

 私たちは、善悪の知識によってではなく、絶えず、生きておられる主様のときの御声に聞き従って、歩みましょう。
 どうか耳しいた私たちが、絶えず、主イエス様の御前にへりくだり、ご聖霊の教えてくださるすべてのことを聞き分けることができますように。悟ることができるように、あわれんでください。

 

 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。箴言1:33
 

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12