いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

豊かな慈愛と忍耐と寛容によるキリストの模範

 

 

 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。Ⅰヨハネ1:6
 

 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。Ⅰヨハネ2:47
 

 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。Ⅰヨハネ2:9
 

 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。Ⅰヨハネ4:20

 

 週末に、ある伝道者による聖書の学びを聞く幸いにあずかりました。
 「ヨハネ第一の手紙」から、反キリストの霊を見分ける方法は、「言い表わし」と「歩み(実際の行ない)」の矛盾であると語られました。
 反論のことばもないほど、実に厳しい一刀両断でした。

 

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。
 義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。
 神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。Ⅰヨハネ3:4-8

 

 続けて、兄弟は語られました。
 悪魔の本質は、「憎しみ」である。悪魔の子どもは、キリストを知った上で、反対、反抗し、迫害する。キリストを認めない。最低限、賛成しない。

 私はそのメッセージに、刺されました。
 なぜなら、「反対し、反抗する性質。賛成せず、批判する性質。」は、まさしく私のうちに、巣食っている性質そのものだからです。

 

 アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。ガラテヤ4:22-23
 

 主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」創世記16:11-12

 

 罪の支配下にある「肉」は、「逆らう性質」、「敵対する性質」を持っています。
 それは、うなじのこわい「野生のろばのような人」、「生まれながらの人間(Ⅰコリント2:14)」、「ただの人(Ⅰコリント3:3)」の際立った特徴です。
 
 私は「健全な教え」に乏しい集まりを見て、打ちひしがれます。
 私は、どこかのお坊さんの道徳の勧めのような「異なった福音」や、「この世の知恵」、「ことばの知恵」に満ちた伝道、自分自身を宣べ伝えているかのようなメッセージを聞くたびに、絶望的な気持ちになります。
 そして、それを許せないと思う自分自身を見て、さらに悲しくなり、涙がこぼれます。
 
 人をほとんど恐れない私は、これまで何度か、それぞれの兄弟のもとへ行き、「どうか十字架につけられたキリストを語ってください。」とお願いしました。
 しかし、それらはほとんど互いの益にはなりませんでした。
 
 自分なりには慎重に懇願したつもりでしたが、兄弟たちには、批判また侮辱と受け止められ、かえって自分の義を立てようとする自己弁護の回路に陥らせ、かたくなにさせてしまったこともありました。
 砕かれた兄弟は、私のことばを受け止めて主様の御前に出てくださり、主様から益をいただいたように感じられたこともありましたが、たとえそうであったとしても、兄弟がいささかも傷つかなかったということはないでしょう。

 

 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ローマ2:1-4

 

 たとえそれが、どんなにみことばに従っていない、真理に基づいていないと思われたとしても、「反対」や「批判」という方法は、悪魔のものであり、死をもたらすだけでした。
 知恵であられる神様が、私たちを悔い改めに導く方法は、「神の慈愛」、「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」でした。

 

 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。ローマ2:17-21

 

 私たちは、どのように神の家に、「健全な教え」をもたらし、神の家を「福音の真理」のうちに、堅く保っていくことができるのでしょうか。
 それは、聖書のみことばと、主様の光に照らされて、「自分自身を教えること」に尽きるのではないでしょうか。
 私たちは、決して、悪魔の子ども、反対する者、反抗する者、批判する者であってはなりません。
 それは、「この世の知恵」では、効率良く思われても、決して「いのち」を与えません。

 

 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。伝道者7:13
 

 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。ヨブ40:8

 

 すべてのことは、神の御手のうちにあります。神ご自身が曲げられたのです。
 私がそれを「ことばの知恵」によって、正そうとするなら、それは「自分を義とする」ことに過ぎませんでした。
 それは、神のさばきを無効にし、神を罪に定めることに他なりませんでした。

 

 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。Ⅰコリント9:22-27

 

 パウロは、弱い人々のためには、弱い者となりました。
 しかしこれは、容易なことではありません。
 合理主義者の私にとって、たとえば「福音のためにハイキングを行なう」など、到底、理解しがたく、苦痛以外の何ものでもありません。

 

 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。ローマ8:6-7

 

 しかし、それを好む人々もいるのです。そして、それが容認されることもあるのです。
 それが「肉の好みから出た計画」であったとしても、それに反抗するのも、「私の肉の好みではない」ことによるのです。
 
 しかし、もし主様が豊かな慈愛と忍耐と寛容を持って、それを許しておられるのならば、私は何とかして、幾人かでも救うために、自分のからだを打ちたたいて、従わせなければなりません。
 私は反対し、批判して、「自分の義」を打ち立てるのではなく、神の義のために、福音のために、神に従って、自分の肉を従わせなければなりません。
 私たちは、「反抗する肉の性質」、悪魔のしわざを打ちこわさなければなりません。
 
 私は、以前、読んだ学びを改めて、思い起こしています。
 
 主イエス様が十字架にかけられた後、ふたりの弟子が、エルサレムを離れて、エマオに向かって歩いていました。彼らは、エルサレムにいるべきでしたが、間違った方向に進んでいました。
 しかし、そこに来られた主イエス様は、「あなたがたは間違っている。悔い改めて、向きを変えなければ、私は一緒に行かない。」とは言わず、へりくだって彼らとともに歩かれ、彼らの話をお聞きになられました。
 
 こともあろうに彼らは、主様に対して、「こんなことも知らないのですか。」と馬鹿にしたような口さえききましたが、主様は忍耐強く、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ(ルカ24:27)」ました。
 そして、彼らの目が開かれ、それが主イエス様だとわかったとき、「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻って(ルカ24:33)」行きました。

 

 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。ヨハネ13:14-15

 

 私たちは、反対するのではなく、批判するのでもなく、一緒に行くことを学ばなければなりません。
 しかし、私たちが一緒に歩くのは、真理から遠ざかっていくためではありません。
 「福音のために」、「私も福音の恵みをともに受ける者となるため」に、行くのです。

 

 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。
 年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。Ⅰテモテ4:12-5:1
 

 すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。
 そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。テトス2:7-8

 

 自分自身を教え続けること、そして、信者の模範、良いわざの模範となること、それが自分自身をも、また他の人々をも救う道です。
 キリストにある「豊かな慈愛と忍耐と寛容」をもって、「愛されている子どもらしく、神にならう者となり(エペソ5:1)」ましょう。
 どうかあわれみ深い主様が、私たちをこのことにかなうものとしてくださいますように。

 

 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。ユダ20-21
 

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:2-3