あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。マタイ5:48
父なる神様のみこころは、私たちクリスチャンが、「完全な者となる」ことです。
求められている完全さのレベルは、「人の考える程度の完全さ」ではなく、「天の父が完全なように」です。
いったい、誰にそんな完全さが期待できると言うのでしょう。
それゆえ、「このみことばは、人間は律法を全うできないことを教えている。しかし、キリストは私たちを律法から解放されたので、もはや律法に縛られることはない。福音によって、恵みによって、自由に神様に仕えれば良い。」といった、自分勝手な解釈が語られるのを聞くことがあります。
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。エペソ5:15-17
しかし、曇りない心で聖書全体を読めば、神の子どもたちが「完全な者となる」ことは、まさしく父なる神様のみこころであることが明らかです。
あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。
彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。 コロサイ4:12
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。ヘブル13:21
新約の聖徒たちも、神様のみこころに従って、神の子どもたちが「完全な者とされる」ように、祈りに励んでいました。
では、「完全な人」とは、具体的に、どのような人なのでしょうか。
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。
ノアは神とともに歩んだ。創世記6:9
神様は、ノアを「全き人」と呼ばれました。それはノアが、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く(創世記6:5)」時代にあっても、「神とともに歩んだ」からでした。
「神とともに歩む」とは、単に「一緒に歩く」という意味ではなく、「神と全く一つ心になって、同じ心になって歩む」という意味ではないでしょうか。
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。創世記17:1
神様は、アブラムにも、「全き者」であることをお求めになりました。それはアブラムが、「常に神様の御前に、恥じることなく、正々堂々と胸を張って、歩み続ける」ということでしょう。
それはアダムのように、「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。(創世記3:10)」と恥じ入ることのない、明るい歩みでしょう。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。ヨハネ3:20-21
神様がお求めになったことは、全能の神様が生きておられることを、いつも心に覚え、神様の御前に、全き心を持ち、神様と全く一つ心になって、神様とともに歩むということでした。
わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。
全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。
もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。
もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」Ⅰ歴代誌28:9-10
主様は、人の心をすべて読みとられるお方です。「全き心」と「喜ばしい心」を持って、神様を求め、神様にお仕えするならば、神様はご自身を現わしてくださいます。
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。詩篇119:1-2
しかし悲しむべきことに、「彼の心は、神、主と全く一つであった」と称賛された人たちは、ごくわずかでした。
主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。
私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。詩篇38:1-8
神様から、「彼の心は、神、主と全く一つであった」と、間接的に称賛されたダビデでさえ、「私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません」と正直に告白しています。
このように、「私たちの肉」には、完全なところなどありません。
しかし、「自らの不完全さ」を認め、「自らの罪」を正直に告白し、「神様のあわれみと、助け」を求めたダビデは、神様のみこころにかないました。
見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。ハバクク2:4
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。
「義人は信仰によって生きる。」のだからです。ガラテヤ3:11
神様の御目に、「正しいと見られる人」、「義人」とは、「キリスト・イエスを信じる信仰によって生きる人」です。
それでは、「完全な信仰を持つ人」が、「完全な者」なのでしょうか。
たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 Ⅰコリント13:2
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ5:14
他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。ローマ13:8
信仰があっても、愛がないなら、わずかばかりの値うちもなく、「隣人を愛する人」は、神様の御目には、「律法を完全に守っている人」でした。
愛とは、本質的に心の内側にあるものなので、それを判断されるのは神様ご自身だけです。
「人はうわべを見る(Ⅰサムエル16:7)」ので、「愛の行ない」があれば、愛があると判断しがちですが、神様の御目は欺くことができません。
そのように完全で、実質の伴った愛が、私たちのうちにあるでしょうか。
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。Ⅰヨハネ4:7
愛は神にあり、神のうちにしか、「完全な愛」はありません。
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」マタイ19:21
私たちは、自分に「何か」が欠けていると感じるとき、「それ」を神様に求めがちです。
しかし私たちは、「何かに欠けている」のではありません。
「私の肉には完全なところ」など全くなく、「私の罪のため私の骨には健全なところ」は皆無なのです。
私たちは、「悪臭を放ち、ただれ」切っているのです。
よし神様から、「その欠けていると思われるパーツ」をいただいたとしても、ただれたところに触れた瞬間、ただれてしまうでしょう。
「完全」とは、「必要な条件がすべてそろっていること」です。
「一部分は、完全である」というのは、論理矛盾です。
私たちは、「ある部分だけ、完全になる」ことは決してできません。「50%の完全」などないのです。
「完全」か「不完全」のいずれかしか、ありません。
もし私たちが、神様のみこころに従って、完全になりたいのなら、「ただれた私たち」は、「古い肉の人に属する持ち物」を、すべて売り払わなければなりません。
もし私たちが、聖書のみことばに従って、すべて売り払い、空にされるなら、キリストが私たちを「完全に占領」してくださいます。
キリスト・イエスの他に、誰が「完全な人」であり得るでしょう。
私たちは、一瞬ごとに、「完全にキリストに置き換えられているか」、「完全に肉の人であるか」の、いずれかの状態しかありません。
「8割方は、キリストだったと思う。」というようなことは、あり得ないのです。
「キリスト」でないなら、それは「肉」です。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。ヘブル1:3
御子イエス・キリストだけが、「神の本質の完全な現われ」です。
私たちは日々、イエス・キリストのみことばと、尊い御血によって洗いきよめられた自分自身を、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物(ローマ12:1)」として、神の御前にささげ、キリストとご聖霊によって、ご支配いただきましょう。
あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。Ⅰコリント1:30
私たちは、神様から「知恵をいただく」のではなく、「神の知恵であるキリストご自身」を、私たちのうちにお迎えするのです。
「私たちのうちにおられるキリスト」こそ、「私たちの義」です。
「私たちのうちに住まわれるキリスト」が、「私たちの聖」であり、「私たちの贖い」です。
私が忍耐に欠けるとき、私はもはや、「主よ。私に忍耐を与えてください。」とは、祈りません。
「主よ。私には忍耐がありません。しかし主よ。あなたが、私の忍耐です。主よ、感謝します。あなたは私の忍耐そのものとなってくださいました。ハレルヤ。アーメン。」
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。ローマ3:31
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。ガラテヤ6:2
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。ヤコブ1:22-25
「律法によって、義と認められる人」は誰もいませんが、「信仰によって、義と認められた人」は、「キリストの律法」を全うできるように、新しく造り替えられました。
それは、「新しいいのち」を与えられたからです。
「新しいいのち」、「キリストのいのち」は、神のご命令を全うすることが自然ないのちです。
「新しいいのち」は、罪のうちや暗やみの中を、決して歩むことができない、素晴らしいいのちなのです。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。Ⅰヨハネ5:3
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。Ⅰヨハネ3:23
「キリストの律法」は、「不完全な人間」の「肉の努力」によっては、決して全うすることはできません。
完全なるお方、うちなるキリストが、ご自身の御力を持って、「キリストの律法」を全うしてくださいます。私たちはキリストに信頼し、信仰の意志を持って従います。そのとき、キリストは、私たちのうちに完全に自由に働いて、ことを成し遂げてくださいます。
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。Ⅰコリント13:10
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Ⅱコリント12:9
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。ローマ9:28
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。Ⅰペテロ5:9-10