いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て

 

 

 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 私の助けは、天地を造られた主から来る。詩篇121:1-2

 

 私のたましいは、絶望しています。
 私の霊も、打ちひしがれています。

 主様から一つの約束をいただいて、もうすぐ2年になります。
 最初の頃、私は、信頼している兄弟姉妹にさえ理解されないその約束が、本当に主様からのものなのかどうか、主様の御前に、激しく泣き、問い続けました。
 けれども、主様は、私の不信仰に呆れ果てるばかりでした。

 

 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。ヘブル10:35-39

 

 私は主様のみこころのときが来ることを静かに待ちながら、時宜にかなって与えられる主様のご命令にしたがって、足りないながらも精一杯、忠実に仕えてきたつもりでした。
 しかし、そのたびに、私の道はふさがれ続けました。

 

 信頼する兄弟姉妹から、現実がそれを否定しているのに、なぜ認めないのかと責められることは、本当に悲しいことです。
 私は、「悔い改めるべきことならば、ぜひ悔い改めさせてください。」と祈ります。
 しかし、私はそのようには導かれていません。
 神には、私を「つまずかせる力(Ⅱ歴代誌25:8)」があり、私を「みこころのままにかたくなに(ローマ9:18)」することもおできになります。
 私たちは、ただこの神を畏れ、あわれみを乞わなければなりません。

 

 いずれにしても、私は自分に聞こえている主様の御声に聞き従うことしかできません。
 モーセが、何度もパロの前に立ち続けたように、私も何度倒されても、主様のご命令が続く限り、立ち続けなければなりません。

 

 彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。
 「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」Ⅰ列王記19:4

 

 さて、私が朝の公園で、聖書の音読を始めて、一カ月ほどした頃、一匹の大型犬が私の隣にやってきて、座りました。
 その飼い主は、犬が座るまま、私の隣で立ち止まりました。
 私は動物が怖いのですが、とてもおとなしそうな犬だったので、恐る恐るその犬の頭を撫でました。
 「おとなしくて、いい犬ですね。」と、二言、三言会話すると、その男性は犬とともに、立ち去られました。

 

 数日後、向こうの方で、その男性が、娘さんと二人で、犬の散歩をしている様子が見えました。

 

 そして、また数日後、その犬は私の隣に来ると、すっかり寝そべって、動かなくなってしまいました。それで、犬を連れていた娘さんも仕方なく、私の隣にしゃがみ込んだので、しばらくお話しすることができました。

 

 その犬は、とても臆病で、知らない人が撫でると吠えるらしいのですが、私が撫でた時、吠えなかったと、その親子は不思議がっていたそうです。
 そして、いつも何を読んでいるのだろうねと疑問に思っていたとのことで、聖書を読んでいることをお話ししました。

 しばらくの間、よもやま話をしていたのですが、犬がいつまでも動かないので、福音まで語れるかもしれないと感じ、私は公園で初めてイエス・キリストの十字架をお伝えする幸いにあずかりました。
 そして、ほどなく、犬は起き上がり、帰って行きました。

 

 私は、この忠実な「神のしもべ犬」に、感動を覚えました。
 その後も、しばしば「神のしもべ犬」は、私の隣に来ては、座ってくれます。
 今日は、この忠実な「神のしもべ犬」が、飼い主・御夫妻を連れてきてくださいました。

 

 実は、この「神のしもべ犬」は、老犬で、後ろ足がなえているので、自分の力では歩くことができません。歩くときには、前足で立ち、飼い主が、しっぽを持ちあげて歩くのです。それは、とても痛ましい姿です。特注車椅子が届くまで、もう少しかかるそうです。
 しかも、肺に腫瘍があるとのことで、寝そべっていると、胸を大きく膨らませて、少し息苦しそうです。
 こんな苦しみに耐えながら、忠実に主様に仕えておられる「神のしもべ犬」の姿に、私はひ弱な自分の信仰を恥じ入るとともに、力強い励ましを受けています。

 

 私はまだ、娘さんにしか、福音を語れていませんが、祈りつつ、この忠実な「神のしもべ犬」にみならう神のしもべとして、与えられた働きにあずりたいと願っています。

 

 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。ローマ8:19-22

 

 被造物は、主様の御前に虚無に服し、うめき苦しみながら、ひたすら忠実に、神を待ち望んでいます。

 

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。
 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。詩篇42:5

 

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。詩篇42:11

 

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。詩篇43:5

 

 詩篇42、43篇のダビデは、絶望の淵で、絶えず、自分のたましいを鼓舞して神を待ち望み、神をほめたたえ続けました。
 そして、神をほめたたえることによって、神の御力に覆われ、神の御救いをいただきました。

 

 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。詩篇62:1

 

 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。詩篇62:5

 

 しかし、詩篇62篇に至ったダビデの「待ち望み」には、著しい変化がありました。
 ダビデのたましいは、黙りました。
 長い闘いの挙句、ダビデは精も魂も尽き果ててしまい、たましいに檄を飛ばす気力も、叫ぶ力も失せ、涙すらも枯れ果ててしまったのではないでしょうか。
 ダビデは、自分のどうしようもない無力さの中に浸されて、一切の抵抗を放棄し、無力な自分を、無力なままで主様の御前に明け渡し、虚無に服しました。

 

 ダビデのたましいは、主様の御前に、完全に沈黙しました。
 ダビデのたましいは、まったき沈黙を学びました。
 しかし、それはダビデの「あきらめ」ではありませんでした。
 自分の無力さのうちに、完全に働かれる主様の御力にのみ、まったき信頼と望みを、置きました。

 

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。Ⅱコリント12:9-10

 

 私たちクリスチャンが、もし神の御救いを経験したいのなら、私たちは自分の無力さの中に、浸らせられなければなりません。
 もし私たちが、主様のよみがえりのいのちを経験したいのなら、まず、死ななければなりません。
 死んだことのない者は、決してよみがえることはありません。

 

 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

 

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 

 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。
 わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 

 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」ヨハネ12:23-28

 

 私たちは、何から救われるべきでしょうか。
 現在の当面している苦しみから、救われるべきでしょうか。
 しかし主イエス様は、ご自分が苦しみから救われるためにではなく、罪人に救いをお与えになるために、ご自身を死に渡されるために来られたのです。
 ご自分を死に明け渡されることによって、父なる神様のご栄光が現わされることを願われました。
 そして、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放(ヘブル2:14-15)」してくださいました。

 

 この主イエス様に、信頼しましょう。このお方を、ひたすら待ち望みましょう。
 私たちには、何の力もなくて良いのです。
 私たちは、このお方に、「どうか弱い私に、力を与えてくださるように。」と小さな賜物を求める必要がありません。
 このお方が、「私の力」そのものとなられたのです。

 

 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。詩篇18:1-2

 

 私たちが無力な自分自身を、まったく明け渡すなら、このお方の全能の御力は、完全に働いてくださいます。
 このお方を、待ち望みましょう。
 このお方こそ、生けるまことの神、唯一の救い主です。

 

 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。詩篇37:3-7

 

 主を待ち望め。その道を守れ。
 そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。詩篇37:34