いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神の福音「十字架につけられたキリスト」を語る

 

 

 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。使徒2:40

 

 近年、霊やスピリチュアルなものに関心を持つ人が増え、新たな「霊ブーム」と言われています。
 私の周囲では、かつては、「占い」のために、遊び半分で、霊的なものに関心を持つ人が多かった気がしますが、このところ、「今の悪の世界を、愛と善に満ち溢れた世界に変える」ために、人生をかけて、「霊の世界」に傾倒していく人が増えているようです。
 
 彼らは、極めて道徳的、良心的で、善良な人々です。そして、教養があり、知的で、能力の高い人々です。
 今の悪の世界に危機感を覚えていた彼らに、「それらの霊」は、「自分の能力を用いて世直しするように。」と呼びかけ、彼らは「それらの霊」に呼応して、熱心に善を行なおうと志しています。

 

 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。Ⅰヨハネ4:1-3
 
 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。
 神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。Ⅰコリント12:3

 

 彼らは、私のように「実のないクリスチャン」より、よほど立派な人々に見えます。
 そして、彼らは実際、とても良い人々なのです。
 しかし、残念ながら、この善良な人々は、救われていないのです。

 

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
 これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。ガラテヤ2:16

 

 いったい、この素晴らしい人格者たちに、「罪人のかしら」のような私が、何かを語る資格があるのでしょうか。
 しかし主イエス様は、彼らをひとりずつ、私のアパートに連れてきてくださり、お話しを聞く機会を与えてくださいました。
 

 彼らは、「神様(根源であるお方)」を、信じています。
 「神様は愛である」ことを、確信しています。
 「神様は霊である」ことを知っており、「霊の存在」を信じています。
 そして、「神様が地上を、愛と善で満たしたいと願っておられること」を、知っています。
 彼らは、神様の御声を、「仲介者(神々、守護霊など)を通して、聞く」と言います。
 その「仲介者である霊」は、「地上に愛と善をもたらすように。」と命じているので、彼らは熱心に、「祈りと行ない」に励んでいます。

 

 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。Ⅱコリント11:14

 

 彼らの語ることは、あたかもクリスチャンの口から聞かれることばのようです。
 彼らは、決して「悪いこと」を語っていませんし、「罪人」には見えません。
 私は、「光の御使いにさえ変装するサタン」の巧妙な惑わしに、舌を巻くばかりです。
 
 しかし彼らには、「救い主」が欠けています。「イエス・キリスト」が欠けているのです。
 ある人は、「イエスという人」について語りますが、「イエスは最高の徳を持った人間であった。」と語ります。
 そして、「自力で」、「イエスを模範とし、イエスのように生きること」を目指しています。
 
 彼らには、「救い」、「福音」がなく、すべての労苦をひとりで引き受け、「自己」のみを資源とし、自己努力によって、奮闘しなければならないのです。
 私たちクリスチャンも、しばしば、このような歩み方をしていないでしょうか。
 
 これらを含めて、いくつかの「異なった福音(Ⅱコリント11:4)」、いわゆる「異端の教え」に触れて、特に覚えさせられた主要な特徴は、次の三点でした。
 
① 「主イエス様」が、三位一体の「神」であることを、否定する。
② 「サタン」の存在を、否定する。
③ 「地獄」の存在を、否定する。
(※「存在」や「ことば」としては直接否定せず、解釈上で骨抜きにすることもある。)
 

 サタンが潰そうとしているこの三点こそ、「福音」の核心部分ではないでしょうか。
 私たちは、断固として「福音」を語らなければなりません。
 
 私たちは本当に、「福音」を宣べ伝えているでしょうか。
 ただ単に「神様は愛です。」、「神様は素晴らしいお方です。」というメッセージを伝えただけで、「福音」を語ったような気になってはいないでしょうか。
 
 このようなメッセージなら、彼らも、他の「宗教」でも、宣べ伝えています。
 先に「主イエス様の恵み」を受けた私たちは、暗やみに住んでいる人々に、光と救いをもたらすために、「福音」を宣べ伝えなければなりません。
 では、聖書の語る「福音」とは、何でしょうか。

 

 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
 
 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。Ⅰコリント15:1-5

 

 「福音」とは、神であるお方、「キリスト・イエス」が、人の姿をお取りになって、地上にお越しくださり、私たちの罪のために十字架上で死なれ、葬られ、私たちの罪が完全に赦されたことの証しとして、神によって、よみがえらされたことです。

 「神性」と「人性」を兼ね備えた「キリスト・イエス」こそ、「神と人との仲介者」にふさわしいお方です。
 そして、両者を引き裂いていた最大の問題であった「罪」を、十字架の御死によって、完全に取り除いてくださいました。

 

 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。Ⅰテモテ2:5-6
 
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ14:6

 

 もし、「キリスト・イエス」がおられなければ、私たちに「救い」はありません。
 神様がおられるだけでは、神様がどんなに愛であっても、神様がどれほど素晴らしいお方であっても、私たちに「救い」はないのです。

 

 私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。Ⅰコリント1:23
 
 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。Ⅱコリント4:5

 

 私たちは、「自分の救われた経験」や、「自分の信仰前、信仰後の変化」など、「自分自身のこと」を語りやすいものです。それも悪くはないでしょう。
 けれど、もし「十字架につけられたキリスト」を語らないまま終わるのなら、それは聞く者を、決して救いません。

 

 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。ヨハネ1:20
 
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」ヨハネ1:29-31
 
 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。ヨハネ1:34-27

 

 バプテスマのヨハネは、自分自身を宣べ伝えませんでした。自分について尋ねられたときは、常にキリストを中心とし、キリストに対して何者であるかを証ししました。
 彼のメッセージは、「十字架につけられたキリストを見よ。」の一言に尽きるのではないでしょうか。
 彼は、みなが自分から去り、キリストについて行くように、「福音」を語り続けました。

 

 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。使徒5:42
 
 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。使徒8:5
 
 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。使徒8:35

 

 使徒たちも、「伝道者ピリポ(使徒21:8)」も、常に「キリスト・イエス」を宣べ伝えました。

 

 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。使徒9:18-20

 

 パウロも、救われるとすぐに、イエス・キリストが神の子であることを宣べ伝えました。
 主イエス様は、「人」ではありません。「被造物」ではありません。

 

 私たちの神であり主であるイエス・キリスト Ⅱテサロニケ1:12
 
 大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス テトス2:13
 
 私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト Ⅱペテロ1:1
 
 私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 Ⅱペテロ1:3
 
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。Ⅰヨハネ5:20
 
 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。黙示録12:10

 

 主イエス様は、神ご自身です。
 それゆえ、主イエス様の十字架は、「罪人の死」ではなく、完全な贖いとなりました。
 この大いなるみわざを成し遂げられた人の姿をとられた神であるお方、イエス・キリストと、その十字架を、まっすぐに宣べ伝えましょう。
 「イエス・キリスト」こそ、私たちの「福音」です。
 「キリストの十字架」こそ、私たちの「救い」です。

 

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
 ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。Ⅰコリント1:22-24