いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「役に立たないしもべ」をお召しになる主の謙遜

 

 

 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。レビ25:55

 

 私たちクリスチャンは、堕落した罪の世、永遠の滅びに至る悪の世界から、力強い神、主の御手によって、贖い出されました。
 こうして私たちは、「罪の奴隷」から「神の奴隷」へときよめられ、「キリストのしもべ」として、召しかかえられました。

 

 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
 
 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
 
 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。ローマ6:16-22

 

 「神の奴隷」は、罪から解放され、聖霊を与えられ、永遠のいのちに至るという、考えられない特権をいただきました。
 私たちは、キリストのしもべとして、心からの感謝をもって、神にお仕えしなければなりません。

 

 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
 
 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。
 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:7-10

 

 しかし私たちは、どれほど主を愛し、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主に仕えたとしても、自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言わなければなりません。
 
 私たちは、神様から「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。(マタイ25:21)」と言っていただくことを期待し、これほど忠実にお仕えしているのだから、必ず、そのように言っていただけるだろうと無意識のうちに考えがちです。
 
 そうして、自分が買い取られたしもべに過ぎないことを忘れ、あつかましくも、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。(マタイ19:27)」と、心のうちで、言い始めていた自分を見せられました。

 

 「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。エゼキエル28:2

 

 そんな私に、主イエス様が教えてくださったのは、「あなたは人であって、神ではない」ということでした。
 然り、アーメン。私たちが、どんなに主を愛していても、どれほど細心の注意を払って、与えられている力をすべて出しても、忠実の限りを尽くしても、それは神様の御目には、どれほど至らないお粗末な働きでしょう。
 私たちは、人間に過ぎず、神ではありません。
 本当に私たちは、神様の御目に、どんなに取るに足りない者でしょう。
 
 このように悲しいくらいに情けなく、ちりに過ぎない者を、主は、ご忍耐とへりくだりの限りを尽くして、お召しになり、お用いくださるのです。
 なんと主イエス様は、情け深く、あわれみ深く、いつくしみ深いお方なのでしょうか。
 このまったき謙遜であられる主イエス様に、ただ感謝します。

 

 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。民数記12:3

 

 モーセは、誰よりも謙遜な人として、神様に喜ばれ、聖書に記録されるほど素晴らしい人物でした。

 

 私は、そのとき、主に懇願して言った。
 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」
 
 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。
 そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」申命記3:23-28

 

 旧約の時代、これほど謙遜で、忠実に仕えた神のしもべモーセが、主に懇願しても、ただ一度の過ちのゆえに、ヨルダンを渡ることを許されなかったのです。
 新約の聖徒である私たちは、主イエス様の十字架の贖いのゆえに、神の御目には、永遠に罪を赦された者とされ、確実に天の御国に入ることが約束されています。
 
 そして、神のしもべモーセとは、ほど遠いような愚かで、わきまえのないしもべたちをも、主イエス様は、あわれんで、みわざの一端にあずかることを許してくださっているのです。
 感謝しましょう。ただ感謝しましょう。
 
 主よ。わきまえのないしもべの不遜の罪をお赦しください。
 私がかつて、どのような者であったか、そして今も、いったいどのような者であるのかを、本当によくわきまえ知ることができるように、どうかあわれんでください。
 そしてあなたが、このしもべを働きに召してくださるときに、ひたすら畏れおののいて、誠実、真実、忠実に、その尊いみわざにあずかることができますように、助け、導いてください。
 愚かで足りないしもべに、どうかいつも、あなたのあわれみといつくしみを賜りますように、心からお願いいたします。

 

 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。詩篇103:13-14