いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

主にだけ仕えるキリストのしもべ

 

 

 私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。Ⅲヨハネ9

 

 「かしらになりたがっているデオテレペス」。
 まさか、このみことばが、「キリストにある姉妹」である私を刺してくれるとは、思いもよりませんでした。

 私たちクリスチャンはみな、「イエスを主(ローマ10:9)」と告白しました。
 私たちの「主」は、イエス・キリストであり、私たちの「かしら」は、イエス・キリストおひとりです。

 

 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。
 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。Ⅰコリント1:12-13

 

 私たちは、目に見える「人」を、「主」としてはいけないと教えられ、「人につく信仰」に陥らないように気をつけます。

 しかし、もっとも恐ろしいのは、目に見えない「人」、自分自身を「主」とし、自分自身を「かしら」としてしまうことです。
 「私の肉」、「私の自我」は絶えず、「自分の意志」を「かしら」として歩むようにと勧め、うわべでは「イエスを主」と告白しながら、その実、「自分自身」を「主」に押し上げようと働きかけています。

 聖書のみことばの「曲解(Ⅱペテロ3:16)」、「人の私的解釈(Ⅱペテロ1:20)」、「自分につごうの良い(Ⅱテモテ4:3)」解釈は、こうして始まっていきます。

 

 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。Ⅰペテロ2:11

 

 私は、外側で働くサタンをあまり恐れませんが、私の内側で巧妙に働くサタンに、厳戒態勢で臨まなければならないことを教えられます。
 「私の肉」は、「自分の負うべき十字架」を巧妙に免れ、また、神の栄光を盗もうと、日夜、働いています。
 私にとって、「自我」とは、まったく油断ならない、最大の敵です。

 この「自我」は、自分自身ですから、自分自身の力によっては、決して対処することができません。

 

 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。Ⅰペテロ3:18

 

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。ガラテヤ5:24

 

 しかし、私たちの肉は、十字架に付けられ、死に渡されました。
 私たちは、日々、信仰によって、この救いに至る十字架を、自分自身の肉に対して、適用させていただかなければなりません。

 

 肉にある者は神を喜ばせることができません。
 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
 
 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
 
 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
 しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。ローマ8:8-14

 

 私たちは、たとえ「自我」を「かしら」として押し通し、「自分の考え」、「自分の願い」、「自分の都合」にあわせて、聖書のみことばをねじ曲げたとしても、「肉に従って生きるなら、必ず死ぬ」のです。
 結局、「自己をかしらとする」、「自我を主とする」者は、自分の望んでいた報いを受けることはないのです。

 

 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ9:24

 

 ですから私たちは、覚悟を決めて、神である主のために、私たちの罪のために十字架におかかりくださったお方、イエス・キリストのために、自分のいのちを捨てなければなりません。

 

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。ヨハネ12:24-26

 

 私たちは今、神である主に仕えている、「キリストのしもべ」です。
 私たちは、「自分の欲に仕えている(ローマ16:18)」者ではなく、「かしらなる主キリストに仕えている」しもべです。

 

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」マタイ4:10

 

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。ピリピ2:6-7

 

 私たちの「かしらなるキリスト」は、「主にだけ仕えよ。」と教えられ、事実、「ご自分を無にして、仕える者」として、地上のご生涯をまっとうされました。
 私たちは今、この「キリストのしもべ」として、キリストにお仕えすることを許された者です。

 

 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。
 
 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
 
 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」ルカ7:6-8

 

 ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」ルツ3:5

 

 しもべとは、主人から命じられたことを、命じられたとおりに、忠実に行なう者です。
 主人の言いつけに対して、自分勝手な解釈を交えたり、自分にとって都合の良いように修正したりすることなく、おことばどおりに実行する者です。
 主人の言いつけに、「自分」を介入させるということは、主人よりも、自分の方が賢く、知恵がある、まさっているという思い上がりに他なりません。

 

 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。
 「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」
 それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。イザヤ20:2

 

 預言者イザヤに対する主のご命令は、実に過酷なものでした。
 聖書には何ら触れられてはいませんが、「イザヤの肉」、「イザヤの自我」には、多くの言い分があったのではないでしょうか。
 なぜ、そんな馬鹿げたことを、しなければならないのでしょうか。
 しるしとなるどころか、単なる狂人と勘違いされるのが関の山ではないでしょうか。
 もっと知性に訴える方法を取るべきではないでしょうか…。
 
 しかし、イザヤは、主のご命令に、おことばどおりに従ったのです。
 神の山ホレブで、モーセは、「あなたの足のくつを脱げ。(出エジプト3:5)」と命じられ、ヨシュアもエリコの近くで、「あなたの足のはきものを脱げ。(ヨシュア5:15)」と命じられました。
 ある兄弟は、ルツ記から、「足のはきものを脱ぐ」行為は、「権利の譲渡の証明」であると学ばれました。
 イザヤは、足のはきものを脱ぎ、「自分に属していたすべての権利」を、神である主に明け渡しました。

 

 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」
 彼らは水がめを縁までいっぱいにした。ヨハネ2:7

 

 新約の時代に入っても、主イエス様はときに、人間にはたやすく理解できないことを、お命じになりました。
 彼らが当面していた問題は、「ぶどう酒がない」ことでした。しかし主は、「水がめに水を満たしなさい。」とおっしゃいました。
 それは、人の知性においては、およそ無意味で、愚かしい行為に過ぎませんでした。
 しかしそれは、誰が「かしら」か、どなたが「主」であるかという、本質的な問題でした。
 主イエス様のみことばに従った彼らは、祝福にあずかりました。

 

 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
 
 すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
 だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。ルカ12:47-49

 

 「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」ヘブル1:7

 

 もし今日、御声を聞くならば、キリストのしもべである私たちは、主の御声に聞き従いましょう。
 「自分の考え」、「自分の都合」など、つべこべ並べたてずに、かしらであり、主であるお方の御声に従順に聞き従い、キリストに仕えることによって、「永遠のいのちに生きる者」とされましょう。

 

 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。
 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:9-10

 

 主の御声に聞き従ったことを、「自分の肉」が誇らないように気をつけましょう。
 神様がご自身のご栄光を現わしてくださったときに、「自分の肉」が、神様のご栄光を少しでも盗まないように、誤った報いを受け取って、永遠の報いを損じることがないように、「焦点」を見誤らないように、自らを戒めましょう。

 

 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。ヘブル9:13-14

 

 私たちは、キリストが神にささげられた御血によって、日々、邪悪な良心を、きよめていたただきましょう。
 この血こそ、私たちを真に、純真で、忠実な神のしもべ、「生ける神に仕える者」としてくださいます。
 どうか主が、日々、邪悪な私たちをきよめ尽くし、新しく造り変え、真に役立つキリストのしもべたちとしてくださいますように。

 

 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。
 
 すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。
 そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
 
 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
 また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」黙示録7:13-17