いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

三日目に、よみがえらなければならない

 

 

 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。使徒26:8

 

 私たちクリスチャンは、「イエス様を主」と告白し、自分の心で、神様は、「イエス様を、死者の中から、よみがえらせてくださった」と信じて、救われました。

 

 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。Ⅰコリント6:14

 

 私たちの地上の日々には、様々な困難が与えられていますが、たとえそうであっても、神は、この朽ちるべき私たちをも、よみがえらせてくださると、本当に信じているでしょうか。

 

 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」ヨハネ6:38-40

 

 父なる神様のみこころは、御子イエス様が、私たちクリスチャンを、「ひとりひとり終わりの日によみがえらせること」でした。
 父なる神様のみこころは、「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと」でした。

 私たちは、父なる神様のみこころにしたがって、主イエス様の忠実、誠実、真実によって、確かによみがえります。そして今、確かに永遠のいのちを持っています。

 

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
 
 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」マタイ16:15-19

 

 父なる神様に、目を開かれたペテロは、主イエス様が、「生ける神の御子キリスト」であることを、はっきりと悟りました。
 そして主は、目を開かれたペテロに、「主イエス様こそ、生ける神の御子キリストである」という「信仰の土台」の上に、「キリストのからだなる教会」を建て上げると約束されました。
 主はまた、「天の御国のかぎ」を上げると約束されました。「天の御国のかぎ」とは、今すでに、私たちに与えられている、すべての真理に導き入れる「真理の御霊」でしょう。

 これらの大いなる祝福のことばの後に、主は恐ろしいことを語られました。

 

 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。マタイ16:20-21

 

 初めて主が、弟子たちに十字架の予告をされたとき、「三日目によみがえります」とはおっしゃらずに、「三日目によみがえらなければならない」と、お示しになりました。
 このこみことばは、「よみがえり」は、父なる神様のみこころであり、父なる神様の側からは「摂理」でしたが、御子イエス様の側では「意志」であったことを、教えているのではないでしょうか。

 主ご自身は、強い「意志」、すなわち「信仰」をもって、父なる神様のみこころにしたがって、「よみがえらなければ」なりませんでした。
 父なる神様のみこころは、必ず、成就されますが、そうであっても、主ご自身もまた、「父なる神様は、必ず、よみがえらせてくださる」という、堅い信仰に立ち、「死を打ち破って、よみがえる」という「意志」を持つことが必要でした。

 

 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイ16:22-23

 

 「信仰の創始者であり、完成者(ヘブル12:2)」である主の断固たる信仰姿勢に対し、ペテロは、「困難に会わないことが神のみこころ」と思い、そうならないことを願いました。
 しかし、主は、どんな犠牲を払っても、神のために生きることを教えられました。

 

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。マタイ16:24-27

 

 「自分を捨て、自分の十字架を負う」とは、まさに「自己の死」、すなわち「自我の死」を選ぶことでしょう。
 自らの意志をもって、父なる神様のために、進んで、「自我の死」を選択するのです。
 それが、主イエス様にしたがい、主イエス様についていく道です。

 しかし、神のために「自我の死」を選択する者は、「まことのいのちを見出す」のです。
 古い、腐り果てた、まったく改善の余地のない、「自我のいのち」は死にますが、新しい、完全な、「まことのいのち」を、地上にあって、一足先に「見出す」のです。
 これこそ、クリスチャンの醍醐味ではないでしょうか。

 

 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」マタイ16:28

 

 「決して死を味わわない人々」とは、だれでしょう。
 私たちが、信仰の意志をもって、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして主イエス様について行く」ならば、私たちは決して、「死を味わう」ことがありません。

 

 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
 
 ダビデはこの方について、こう言っています。
 『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』使徒2:23-28

 

 然り、アーメン。この方が、死につながれていることなど、あり得ません。
 そして、父なる神様は、神のしもべたちが、この世のハデスに捨て置かれたり、朽ち果てたりすることを、決してお許しにはなりません。

 ここには、「私たちの側の信仰」が必要です。
 神は、私たちが、どのような困難の中にあっても、私たちを、地上にあって、「よみがえらせて」くださいます。
 私たちは、信仰の意志をもって、「自我の死」を選び取り、「よみがえりのいのち」にあずかり、「まことのいのち」を見出させていただきましょう。

 

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
 このことを信じますか。」ヨハネ11:25-26