キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。ピリピ2:8
キリスト・イエスは、ご自分を、御自ら、卑しくされました。
これは、驚くべきことではないでしょうか。
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。ヨハネ8:49
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。詩篇22:6-7
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53:3
私は、キリスト・イエスが、地上で人々から、そしられ、さげすまれ、あざけられ、「卑しめられた」ことを知っていました。
しかし私は、キリスト・イエスが、むしろ自らすすんで、「ご自分を卑しくされた」ことを、知りませんでした。
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ヨハネ1:46
ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。
そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。使徒22:6-8
博学で、あらゆる能力に秀でたパリサイ人、サウロの前に、現われてくださった主は、人々からさげすまれていた小さな村、「ナザレのイエスだ。」と、名乗られました。
主は、むしろ、傲慢なサウロに対して、権威をもって、「わたしは、キリスト・イエスだ。」と、名乗るべきではなかったでしょうか。
しかし主は、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。」と、お答えになりました。
主は、「人々から迫害されるほど弱い者」として、「ナザレ人・イエス」として、ご自分をお示しになりました。
キリストの模範は、「自分を卑しくする」道でした。
ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」ヨハネ1:26-27
バプテスマのヨハネも、キリストの御前に、とことん自分を卑しくした人でした。
彼のことばは、すべてキリストを中心に語られました。
ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」
彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」
彼は答えた。「違います。」
そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」ヨハネ1:19-23
彼は、常に、自分をキリストの御前に置き、「キリストの御前に、自分が何者であるか」を、証ししました。
彼は、キリストの御前に、「自分を卑しく」しました。
あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。ルカ7:28
彼の生涯の証しは、主イエス様に称賛され、喜ばれました。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。Ⅰコリント1:27-29
神様は、「この世の愚かな者」、「この世の取るに足りない者」や「見下されている者」を、お選びになりました。
それは、神の御前で、だれをも誇らせないためでした。
見栄えのしない「卑しい者」こそ、神のご栄光を、もっとも鮮明に現わすに、ふさわしい者でしょう。
私たちが、卑しければ卑しいほど、このような者を愛され、選ばれた神様は、なお素晴らしいのです。
神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。Ⅰ歴代誌17:17
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ルカ1:46-48
自分を「取るに足りない者」と告白したダビデ、自らを「卑しいはしため」と考えたマリヤは、神様から大きな祝福を受けました。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:2-3
「信仰の創始者であり、完成者」である主イエス様は、ご自分を卑しくされ、罪人たちから、はずかしめられることをも恐れませんでした。
それは、主が、「ご自分の前に置かれた喜び」に、目を留めておられたからでした。
「ご自分の前に置かれた喜び」とは、何でしょうか。
それは決して、やがて「神の御座の右に着座すること」ではなかったと信じます。
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。
私たちの神であり父である方のみこころによったのです。ガラテヤ1:4
主イエス様は、罪人であった私たちが、今の悪の世界から救われて、天に国籍を持つ神の子どもたちとされるという、驚くべき神のみわざをご覧になることを、「ご自分の前に置かれた喜び」とされたのではないでしょうか。
私たち罪人に示され、現わされた、主のあわれみといつくしみ、限りない恩寵に、ただ感謝します。
イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。ヘブル13:12-13
わが贖い主よ。私たちにも、主イエス様が喜びとされたその喜びを、私たちの喜びとし、自ら進んで、自分を卑しくする道を教えてください。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:6-11