モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。
「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」申命記32:45-47
モーセは、すべての神の民に、「神のみことば」を、「心に納めること」、「子どもたちに教えること」、「守り行うこと」を命じました。
その理由は、「神のみことば」こそが、「神の民のいのち」だからでした。
神のみこころは、「神のみことば」によって、神の民が、「新しい地を所有し」、「そこで長く生きる」ことでした。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネ6:63
今、「いのちであるみことば」は、私たちの心に、充分、蓄えられているでしょうか。
私たちの子どもたちには、「健全な教え」が、行き届いているでしょうか。
私たちは、「いのちであるみことば」を、守り行っているでしょうか。
私の属する集まりには、多くの兄弟姉妹がおられます。
しかし、悲しいことに私たちは、どの問いにも、「然り」と答えることができません。
この御教えに従っていない私たちは、当然の如く、いのちに満ちておらず、新しい地を所有することができず、長く生きることもできていません。
私たちは、キリスト・イエスの恵みによって、「永遠のいのち」をいただきました。
しかし、「いのち」には、さまざまな状態があり、「壮健ないのち」もあれば、「病人のようないのち」もあります。
私は、「神の民のいのち」が元気に復興されることを願っています。
「健全な教え」を教える力のある兄弟たちが、もっと多く起こされることを願っています。
「神のみことば」こそ、「私たちのいのち」だからです。
主の恵みによって、私は各地の「主にある集まり」を見る機会にあずかってきました。
私の目には、「生き生きとしているけれど、主とそのみことばに、従っていないかのように見える集まり」がありました。
また一方では、「健全な教えに富んでいるけれど、いのちの輝きを感じない集まり」がありました。
これらの「印象」は、ほんの一部を垣間見たに過ぎない私の、独断と偏見によるもので、実際はそうではないかも知れません。
耳のある者は聞きなさい。
この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』マタイ11:15-17
「笛を吹いて」もらったら、喜び踊って、神をほめたたえるべきではないでしょうか。
タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。詩篇150:4
神が、主の契約の箱をかつぐレビ人を助けられたとき、彼らは七頭の雄牛と七頭の雄羊とをいけにえとしてささげた。ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた。箱をかつぐすべてのレビ人、歌うたいたち、荷物係長ケナヌヤ、歌うたいたちも、同様であった。ダビデは亜麻布のエポデを着けていた。全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。 こうして、主の契約の箱はダビデの町にはいった。
サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。Ⅰ歴代誌15:26-29
私は、たとえ人からさげすまれても、持てるいのちの限り、とびはねて、神を喜び踊りたいのです。
「健全な教え」を聞く幸いにあずかっているのなら、完全さにこだわり過ぎて、神経質に縮こまるのではなく、むしろ喜び踊りながら、みことばを実行して前進していきましょう。
万軍の主はこう仰せられる。
「よく考えて、泣き女を呼んで来させ、使いをやって巧みな女たちを連れて来させよ。」
彼らをせきたて、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、いたく恥を見た。私たちが国を見捨て、彼らが私たちの住まいを投げやったからだ。
女たちよ。主のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿にはいって来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。語れ。―主の御告げはこうだ。―人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる。
主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。
―主の御告げ。―見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」エレミヤ9:17-26
そしてまた、「弔いの歌を歌って」もらったなら、泣いて悲しむべきではないでしょうか。
もし私たちが、主とそのみことばに従っていないなら、必ず、霊的な「死」がもたらされます。
私たちは、「死」から目をそむけてまで、踊り続けるべきではありません。
弔いの歌を聞く日には、ひたすら主の御前にひれ伏して、嘆き、悲しみ、熱心になって悔い改めましょう。
まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。
私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。申命記30:14-20
「いのち」。「いのちと幸い」。「いのちと祝福」。
私は何としても、「いのちの現われ」が欲しいのです。「いのちの実際」に入りたいのです。
「いのちに満たされた主の民」、「いのちに満ち満ちた主の集まり」が見たいのです。
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。
あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。
あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。
ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。
そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。
後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。
「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。
それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」申命記6:4-25
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、私たちの神である主を愛しましょう。
「いのちであるみことば」を、さらに心に蓄え、子どもたちに教え、口ずさみましょう。
ただ主を畏れ、主にだけ仕え、主が良いとみられることを実行しましょう。
そうして、純真な神の子どもたちらしく、「いのちの輝き」の中に生かされましょう。
知恵の足りない愚かな私たちは、どんなに心と、精神と、力を尽くしても、多くの失敗をするでしょう。
けれども、あわれみ深い主は、「失敗してはならない」とは、おっしゃいませんでした。
私たちが神である主を愛して、みことばの実行に励むなら、失敗を通しても、主は多くの教訓を得させ、私たちを成長させてくださるでしょう。
ただ「主を畏れる愚か者」として、主のあわれみにすがり、ひたすら主の道を前進していきましょう。
「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31:7-8