いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

敬虔こそ大きな利益を受ける道

 

 

 私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。Ⅰコリント2:4-5

 

 3年半前、私の退職につまずいて、伝道集会から離れてしまった父は、病気を通して、死と向き合う機会が与えられ、また、家業のことなどで世話をかけた私に義理立てし、久しぶりに伝道集会に集ってくれました。
 

 ところが、数回、通ったとき、ひとりの兄弟につまずいてしまいました。
 その兄弟は大変な読書家で、多くの知識を持っておられます。その方は、熱い救霊の思いを持って、積極的に交わってくださるのですが、立て板に水の如く、語り続けます。
 

 帰りの車で、父は言いました。
 「あの人と話をしていると血圧が上がる。私の方が年上なのに、何とか言い負かしてやろうとしているかのようだ。」

 プライドの高い父の目に、その兄弟の態度は「上から目線の傲慢」に映っていました。
 私たちは、しばしば求道者に対して、熱心さのあまり、このようではないでしょうか。
 

 確かに、未信者は、真理であるイエス・キリストを知らず、御霊に属することをわきまえてはいません。
 しかし、私たちの目が開かれたのは、ただイエス・キリストのあわれみによるのです。
 多くの知識や、説得力のある知恵のことばが、私たちを救ったのではありません。
 十字架のことばの単純な「愚かさ」が、私たちを救ったのです。

 

 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。Ⅱペテロ1:5-9

 

 多くの知識を与えられた者は、容易に高ぶり、高慢に陥りやすく、かえって盲目な者となり、サタンのもの笑いとなってしまいます。
 知識を与えられれば、与えられるほど、ますます主を畏れ、一層心して、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛が、増し加えられなければなりません。

 

 「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。
 しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。ヨハネ9:30-34

 

 彼は、生まれつきの盲人で、生まれてから一度も、光を見たことがありませんでした。
 彼は、暗やみの中に座り、物乞いをして、生きていかなければなりませんでした。

 その上、彼は、主イエス様の弟子たちにまで「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネ9:2)」などと、傷口に塩を塗られるような、はずかしめの言葉を浴びせられました。

 
 しかし、主イエス様は、彼の一切の痛みと苦しみを、ご存じでした。
 主は、彼をあわれみ、彼に不思議なわざをなし、彼になすべきことを教えました。
 そして、主のみことばに従った彼は、盲目だった目を開かれました。

 しかし、彼の人生は、苦難の連続でした。
 盲目であった時も、人々から「罪ゆえの報い」とさげすまれ、卑しめられていましたが、いやされて目が見えるようになった後も、彼の証言は受け入れられず、罪の中に生まれついた者に過ぎないと、ののしられました。

 

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。ヨハネ16:13-14
 

 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。ヘブル8:10-11
 

 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。Ⅰヨハネ2:20

 

 新生したクリスチャンは、みな等しく、「真理の御霊」をいただきました。
 それは、「ひとつの御霊」であり、「すべての真理に導き入れる御霊」です。
 今日、新生したばかりのベビー・クリスチャンに与えられた御霊も、信仰生活数十年のキャリア・クリスチャンに与えられている御霊も、まったく同一の御霊です。

 

 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。Ⅰコリント2:12-15
 

 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。ローマ8:5

 

 しかし、真理の御霊をいただいてる私たちであっても、まだ地上で、朽ちていく身体を持ち、肉の性質を帯びています。
 「肉に従っているクリスチャン」は、「神の御霊に属すること」をわきまえることが、容易ではないかも知れません。

 しかし、そうであってもなお、御霊をいただいている、すべての兄弟姉妹は、「神から賜ったものを、からだなる教会である私たちに知らせる」ために与えられており、肉に従っているように見える兄弟姉妹の口を通しても、主のみこころが語られることもあります。

 

 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。
 また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。
 あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」ルカ9:46-48

 

 この世で長らく生きてきた私は、かつて心の中に、「兄弟姉妹ランキング表」を、隠し持っていました。無意識のうちに、「誰が一番偉いか」という目で、兄弟姉妹を見ていたのです。
 これは本当に愚かなことでした。
 この「隠れたランキング表」のゆえに、私は、どれほど多くの有益な主の御声を、聞き逃してきたことでしょう。

 

 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。
 だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。ローマ12:3-6

 

 私たちは、からだの一器官に過ぎず、「単独で、完全である」ことはできません。
 しかし、「単独で、完全な者にならなくても良い」という知らせこそ、福音でした。

 私は、完全な者にならなければならない、立派な者にならなければならない、と重荷を抱え、頭を抱えていました。
 しかし、私たちは、今、キリストをかしらとする「ひとつのからだ」です。

 私が生涯に学ぶことができる真理は、ほんのわずかの部分に過ぎませんが、私は他のからだの器官から、彼らがそれぞれに学んだ真理の供給を受けることができます。
 「単独で、立派な者にならなくても良い」とは、私にとって、素晴らしい福音でした。
 私たちは、キリストのからだにあって、安息することができるのです。

 

 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。Ⅰコリント12:4-7

 

 今の私にとって、真理とは、「無限大のジグソーパズル」のようです。
 兄弟姉妹は、同じ「真理のピース」を見出し、同じことを学ぶこともありますが、それぞれが与えられた賜物と経験にしたがって、異なる「真理のピース」を学んでいきます。
 こうして「無限大の真理のジグソーパズル」は、多くの兄弟姉妹の労苦を通して、少しずつ完成していきます。
 

 しかし、人間は自己中心的なので、「自分の知らないピース」を理解し、受け入れることは容易ではありません。けれども、「自分の知らないピース」をさげすむ人は、決して、益を受けることがありません。

 ある場合、そのピースは勘違いであり、「真理のピース」ではないこともあるでしょう。
 しかしそうであっても、「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」と一蹴するべきではありません。
 「その勘違い」すらも、神の権威と、許しのもとで、見せられたのですから、私たちは、ただ主を畏れて、「その勘違い」を起こされた、神のみこころを学ぶべきでしょう。
 「勘違い」からも学ぶことのできる者こそ、真に「知恵のある者」ではないでしょうか。

 

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28

 

 キャリア・クリスチャンが、たとえ「99枚の真理のピース」を持っていたとしても、ベビー・クリスチャンが持っている、「たった一枚の真理のピース」を知らないこともあるのです。
 私たちは、ただ主を畏れて、真理と、真理の御霊に対して、謙遜であり続けるならば、多くの益を受けられるでしょう。

 

 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。ローマ12:10
 

 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。ローマ12:16
 

 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。Ⅰペテロ5:5-7

 

 「実るほど、こうべを垂れる稲穂かな。」という言葉は、金言です。
 私たちは、いのちの日の限り、ますます主を畏れ、日ごと新たに、真理にはほど遠い者であることを覚え、へりくだって主の御前を、純真な神の子どもらしく、軽快に歩ませていただきましょう。

 

 満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。Ⅰテモテ6:6