いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

ひたすら「神のあわれみ」にすがる

 

 

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
 主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。
 「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。哀歌3:22-24

 

 神である主が、新しい地に私を住まわせられてから2年と半年。
 生きておられる主は、私に公園伝道の思いを与えてくださいました。
 数ヶ月前に突然の病のため、家業を継続できなくなった父に代わり始めることとなった早朝の牛乳配達を、終えた後の2時間ほど、どこかの公園で聖書通読を始めたいという志を立てさせてくださいました。

 ふさわしい公園が与えられるようにと祈るとすぐに、大きなテーブルと、それをとり囲むベンチ、それらを覆う日よけ、雨よけの屋根、さらに駐車場まで備えられた、ウォーキングコースのような公園が、配達途上に与えられました。
 

 私は、主の導きに感謝し、数週間から、喜んでそこに座り、聖書の音読を始めました。
 人を恐れることを知らない私は、数日後には、聖歌も賛美し始めました。
 早朝の公園には、人影はまばらです。新緑の山々が取り囲み、緑の芝生の広がる、静かな公園に座り、力強い朝日を感じながら、声の限り主を賛美するひと時は、本当にすがすがしいものです。

 ああ、このところに、主のみことばと、主のいのちが解放されますように、と祈りつつ、私は自分の音痴を省みず、高らかに声をあげて歌います。

 造られしものよ。声上げて歌え。ハレルヤ!ハレルヤ!
 朝日いざ歌え。夕月いざほめよ。主なる神を。ハレルヤ!ハレルヤ!
 

 それは、通りすがりの人の目には、極めて奇異な行動でしょう。 
 しかし、しばらくすると、「何をしているのですか?」と興味を持って、尋ねてくださる方々が起こされました。
 実に、「継続は力なり」です。

 私はまだ焦ることなく、ただ「聖書を読んでいます。」と答えるだけです。
 実際、怠慢な私は、なかなか聖書通読ができないので、ここに立つことによって、自らに聖書通読を課しています。みこころならば、ともに聖書を読んでくださる方が起こされますようにと祈りつつ。
 

 ところが、数日前から、私は公園に行けなくなってしまいました。
 花粉症の私にとって、この季節の花粉と黄砂は堪えがたく、最近は、マスクをしたまま音読、賛美していたのですが、遂に恐れていた頭痛も始まり、とうとうそこに立つことができなくなってしまいました。

 私は、この働きは、主から与えられたものだと思っていました。
 しかし、とてもそこに立てないくらいの頭痛があり、そこに立ち続けるならば、花粉症は確実に悪化しそうです。
 

 私は、祈りました。
 主よ。中止することがみこころならば、私はそれに従います。
 しかし、継続することがみこころならば、たとえ命を縮めても、そこに立ち続けることができますように。

 今朝は、なぜか頭痛を感じず、公園で、賛美と聖書音読にあずかることができました。
 そして私は、この小さな働きを知って、祈ってくださっている兄弟姉妹がおられたこと、とりなしてくださっている大祭司・主イエス様がおられたことを、ようやく思い出しました。
 そして私は、こんなささやかなことでさえ、決して、自分の力で、できていたわけではなかったことを、悟りました。

 すべてのことは、ただ「神のあわれみ」でした。
 私は、「あわれんでくださる神」について、思い巡らせました。

 

 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。ローマ9:13

 

 主日に、このみことばが読まれ、ある本のエピソードが引用されました。
 ある姉妹が、「愛なる神様が、なぜエサウを憎まれたのか、私には理解できません。」と、こぼしたとき、ある兄弟が、こんな風に語られたそうです。
 「私には、むしろ神様が、ヤコブを愛されたことの方が、不思議でなりません。」
 

 然り、アーメン。私たちはみな、神に対しては反逆者であり、憎まれ、滅ぼされて当然の者でした。こんな私たちを、神様が愛してくださったことは、実に驚くべきことでした。

 いったい私たちは、どこに目を留め、何を基準として、「普通」あるいは「当然」と考えているでしょうか。
 私たちの目は、本当に、絶望的に盲目です。

 

 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:15-16
 

 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。ローマ11:30-32

 

 「赦しの神(ネヘミヤ9:17)」「情け深く、あわれみ深い神(ネヘミヤ9:31)」は、私たちに「あわれみ」を教え諭すために、すべての人を不従順のうちに閉じ込めてくださいました。
 私たちは、「あわれみ」を経験しなければ、「あわれみ」を知ることがありません。
 私たちは、父なる神様と、主イエス様の「あわれみ」を受け、「あわれみ」を受けた量にしたがって、ようやく他の人をも「あわれむ」ことを学んでいくのです。

 

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。ローマ11:33

 

 私たちは、父なる神様に、何かを求めるとき、何を根拠に祈り求めるべきでしょうか。

 

 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。ミカ6:6-7

 

 私たちは、不遜にも、自分自身から出る何かによって、主の御前に進み出るべきではありませんでした。

 

 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ1:11
 

 彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。ネヘミヤ9:17
 

 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。ネヘミヤ9:19
 

 彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなるあわれみによって、彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。ネヘミヤ9:27

 しかし、彼らが立ち返って、あなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたのあわれみによって、たびたび彼らを救い出されました。ネヘミヤ9:28
 

 しかし、あなたは大いなるあわれみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから。ネヘミヤ9:31
 

 私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。ネヘミヤ13:22

 

 神殿再建のために、いのちをかけたネヘミヤは、徹底的に、「神ご自身の約束されたみことば」と、「神のあわれみ」を根拠として、執拗に祈り続けました。
 とことん「神のあわれみ」に拠り頼み、ひたすら「神のあわれみ」にすがり、涙と叫びをもって、祈り続けました。

 

 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。
 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」マタイ15:22
 

 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。マタイ17:15
 

 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。マタイ20:30-31
 

 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。
 彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。ルカ17:12-13
 

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』ルカ18:13

 

 彼らの求め方は、実に遠慮のない、激しいものでした。
 しかし彼らは、自分自身の持つ何ものにもよらず、ただ「神が情け深く、あわれみ深い御方であること」を、唯一の根拠として、大胆に求めたので、神はみこころを動かされ、彼らは「あわれみ」を受けました。

 

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。エペソ2:4-6

 

 私たちクリスチャンは、すでに「情け深く、あわれみ深い神」の恵みを経験したのです。
 すでに救われた私たちは、さらに大胆に、遠慮なく、「神のあわれみ」にすがりつき、「情け深く、あわれみ深い父なる神様」に、祈り求め、願い求め続けましょう。

 

 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。ユダ20-21