「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。民数記3:12
「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である。民数記3:45
イスラエルには、多くの部族がありました。
神である主は、それぞれの部族に、それぞれの宿営地と、それぞれの奉仕をお定めになりました。
それは、人間の側の「都合」や「希望」には、よりませんでした。
神である主は、一方的かつ絶対的な権威をもって、レビ人を「ご自分のもの」とされました。
ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。
あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。
罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。
あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。
アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。
これは彼らが主の奉仕をするためである。
レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主にささげる。
あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。
あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。
彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。民数記8:5-16
しかし、レビ人が実際の奉仕にあたるには、彼らをまず「きよめ」、「奉献物として主にささげる」ことが必要でした。
彼らは、主の御目に、「きよい奉献物」でなければなりませんでした。
こうして彼らは、「正式に主ご自身のもの」とされました。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1
「聖い、生きた供え物」とされた「レビ部族」は、地上で、「目に見える相続地」を受けることはありませんでした。
レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。
彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。
彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。
主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。申命記18:1-2
目には見えない神である主は、驚くべきへりくだりをもって、彼らにご自身を「相続地」としてお与えになりました。
「レビ部族」は、主ご自身を相続し、主ご自身の中に住まい、主ご自身の中で生活しました。
彼らの食物は、「主への火によるささげ物」でした。それは、「主への全焼のいけにえで、なだめのかおり(出エジプト29:18)」でした。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。ローマ3:25
キリスト・イエスは、堕落した罪の世にあって、父なる神様の御怒りを、なだめることのできる「唯一の聖い供え物」として、ご自身のからだを「死」に明け渡し、「火によるささげ物」となってくださいました。
父なる神様は、この香ばしい、なだめのかおりを嗅がれ、御子の贖いを信じる者たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいました。
「レビ部族」は、生涯、この「火によるささげ物」であるキリスト・イエスを、食べていかなければなりませんでした。
ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった。ヨシュア13:14
「レビ部族」はまた、「火によるささげ物」を享受するばかりでなく、「火によるささげ物」として、自分自身を「死」に明け渡す立場をも、相続する者たちでした。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」マタイ3:10-12
私たちの神は焼き尽くす火です。ヘブル12:29
「レビ人」とは、誰でしょう。私たちは、今、「レビ部族」でしょうか。
主日に、ユニークな視点での学びにあずかりました。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。マタイ25:15-18
私たちクリスチャンに与えられている「賜物の種類」は異なりますが、神にはえこひいきはなく、クリスチャンはみな、「同じ聖書」の「同じ祝福」に、あずかっています。
五タラント、二タラント、一タラントというのは、「各人の聖書の祝福の価値の受け止め方の違い」と、捉えることもできるのではないか、という投げかけでした。
「レビ部族」とは、自分に与えられた主の祝福は、「五タラント以上の価値がある」、「自分の生涯を、火によるささげ物として、捧げ尽くす価値がある」と、心から理解した者なのではないでしょうか。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。ヨハネ19:28
私たちの主は、渇いておられます。
主の渇きをいやすことのできる、「主へのなだめのかおりの、火によるささげ物」となる「レビ部族」は、今、どれくらいいるでしょうか。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ヨハネ4:6
主は、地上で働き続けられ、お疲れになり、井戸のかたわらに、腰をおろされました。
目の前には、井戸がありました。
井戸の中には、主の旅の疲れをいやす、冷たい水があるはずでした。
しかし、主は、その井戸を目の当たりにしながら、ご自身のためには水を汲むものすらお持ちにならず、また、みもとを離れず主に仕えて、水を汲んでくれる者もおらず、正午(ユダヤの六時)の日の照りつける暑い中、渇ききっておられました。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。
イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ヨハネ4:6-9
主は、本当に渇いておられました。
それゆえ主は、へりくだりの限りを尽くされ、「異邦の」、「罪深い」、「ひとりの」、「女」にまでも、水をお求めになりました。
ダビデはしきりに望んで言った。
「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。
ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。
「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。
三勇士は、このようなことをしたのである。Ⅱサムエル23:15-17
今、主に水を汲んで差し上げ、主の渇きをいやすことのできる「レビ部族」の勇士たちは、まだ残されているでしょうか。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13-14
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。ヨハネ7:37-39
キリスト・イエスを信じる者は、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。
キリストと、そのみことばを飲む者は、永遠のいのちへの水がわき出ます。
もし、私たちのうちに、信仰による、いのちの水が与えられているのなら、流れ出るようにされたのなら、主ご自身から与えられたその生ける水を、大いなる感謝をもって、主に汲んで差し上げましょう。汲んで主の渇きをいやし、主をお喜ばせしましょう。
わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。
わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。黙示録21:6-7
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。黙示録22:17