いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「愛されている自信がない」という病

 

 

 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
(彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。)

 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネ5:2-7

 

 時々水が動かされるという「奇蹟の池」のほとりには、病がいやされることを待ち望む多くの人々が伏せっていました。
 誰もが、身体的なハンディーを抱え、最初に池に入れる可能性など、なさそうな状態でした。彼らにとって、いやされることは、ほとんど奇蹟の二乗でした。
 

 しかし、38年間病で伏せっていた男性は、主イエス様の「よくなりたいか。」との問いに、「よくなりたい。」とは、答えませんでした。

 彼の病のいやされない本質的な原因は、「よくなりたくなかった。」ことにありました。
 確かに、病の発症当時は、「よくなりたい。」と願っていたかも知れませんが、長い間、伏せっているうちに、その状態になじんでしまい、いつの間にか、そこが「彼の居場所」になってしまったのではないでしょうか。
 

 彼は言いました。
 「私には、…してくれる人がいません。」、「他の人が、…なのです。」。
 「彼」は、あわれで、かわいそうな「被害者」でした。
 彼にとって「他の人」は、あわれみのない意地悪な「悪者」でした。

 長い闘病生活を経て、絶望の果てに、彼は心を病んでしまいました。
 いつしか彼は、「被害者として人々の同情を集めることに、ささやかな満足を覚える生活」に、安住するようになってしまったのではないでしょうか。

 「悲劇の主人公」として、「かわいそうな私」に浸ることは、しばし自己を陶酔させてくれます。
 もし病がいやされたとしたら、彼は「被害者」の立場を失い、人々の同情を得られなくなってしまいます。
 

 これは巧妙なサタンの罠です。
 「お前の病は、治らない。絶望的だ。いやされるなどと考える方が間違っている。神はお前を愛していない。願えば願うほど、絶望が深まるだけだ。」
 彼は、ほとんど無意識のうちに、「よくなりたくない。」と思うほどに、サタンに心を操つられてしまったのではないでしょうか。

 

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。詩篇42:11

 

 絶望してはいけません。
 失望、絶望とは、サタンの罠です。
 サタンが私たちの目におおいをかけて、神を見えなくさせているのです。

 

 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。Ⅱコリント3:16-17

 

 神は私たちを愛しておられます。これこそ、私たちの確信です。
 私たちは取り巻く環境がどのように絶望的に見えても、決して絶望してはなりません。
 諦めてはなりません。それは、「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエス(Ⅰテモテ1:1)」を否定することです。

 

 人の望むものは、人の変わらぬ愛である。箴言19:22

 

 さて、幼い頃から、「愛されている自信」のなかった私は、欲しいものを両親にさえ、なかなか「求める」ことができませんでした。
 小学生の頃、とても欲しいものがあり、母におこずかいを求めたかったのですが、私の心の中には、「どうせ、くれるはずがない。」という思いが、あまりにも強くありました。
 けれども、どうしても欲しかったので、さんざん悩んだ挙句、勇気を振り絞って、母に言いました。
 「お母さん。私が『おこずかいが欲しい。』と言ったら、おこずかいをくれる気はある?」

 母は、私のその「屈折した求め方」に激怒しました。
 「なぜ素直に、『おこずかいをちょうだい。』と言えないのか。」と。
 結局、私は母に怒られただけで、「やっぱり」、おこずかいをもらえませんでした。
 

 「愛されている自信のない人」は、無意識のうちに、他者の何でもないような言動まで「私のことが嫌いだからなんだ…。」と、「悪意」に解釈しがちです。
 悲しいことに、「愛されている自信のない人」にとって、世界は、「私に対する悪意と敵意」に満ちているのです。
 

 「愛されている自信のない人」は、人に素直に、正常な方法で、何かを「求める」ことができません。
 その人の取る選択肢は二種類です。

 「ふんっ、どうせ…。」と諦めて、求める思いを心の奥底に閉じ込めて、ぐっと我慢してしまうか。
 ある日とうとう、堪忍袋の緒が切れて、爆発し、怒りに燃えて、いつまで待っても「私の内心の求め」に応じてくれない相手を訴え、激しく攻撃するか。
 

 こうして、「愛されている自信のない人」が、人に何かを求めるときには、極めて異常、極端な表現となってしまいます。
 しかし、「内心の求め」など、相手に伝わる可能性は低いので、ある日突然、ブチ切れてしまうその人に、相手は非常にたじろいでしまいます。

 けれども、「愛されている自信のない人」は、「素直に求める」、「お願いする」という方法を知らず、思い浮かんだことすらないのです。
 

 素直に、正常な方法で、人に何かを「求める」ことができるのは、「愛されている自信のある人」だけです。
 「相手は私のことを愛しており、私の求めに好意的に対応してくれるだろう。」と、信頼できて初めて、「素直に、お願いして求める」ことができるのです。
 

 「愛されている自信がない」と、その言動は極端になりがちで、多くの人間関係が屈折してきます。
 そして、その屈折がさらなる屈折を生み、人間関係はどうにもならないくらいにこじれてしまいます。
 これこそ、「負の連鎖」です。
 しかし、キリストの十字架は、今やすべての「負の連鎖」を「断ち切る力」となりました。

 

 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」ヨハネ11:4

 

 私たちのこうした「心の病」は、死で終わるだけものではありません。
 この病こそ、実に神のご栄光のためのものです。

 

 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。エレミヤ31:3-4
 

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Ⅱコリント5:17

 

 神は私たちを、永遠の愛をもって愛してくださいました。
 たとえ世界中の人々が、「私」を憎み、嫌っているかのように感じられたとしても、神は「私」を永遠の愛をもって愛しておられます。
 
 それゆえ、主イエス様は、私たちの病をになわれ、十字架上で「私たちの病もろとも」死んでくださり、葬られてくださいました。
 死んで終わらせるだけではなく、よみがえってくださることによって、神のご栄光を現わしてくださいました。
 そして、主イエス様とともに死んだ私たちをも、よみがえらせ、まったく新しく建て直し、造り直してくださいました。

 

 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。ヨハネ6:39-40

 

 私たちクリスチャンは、まったく新しい、よみがえりのいのちにあずかりました。
 私たちは、よみがえりのいのちによって、新しく、求めなければなりません。

 

 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。ヨハネ14:13
 

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。ヨハネ15:7-8

 

 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネ16:24

 

 主イエス様は、繰り返し、私たちに「求めなさい」と教えられました。
 「主イエス様の御名によって、父なる神様に求めること」は、求めたい者だけが用いることのできる特権ではなく、主イエス様のご命令であり、クリスチャンの責任でした。

 もし私たちが、「求める」ならば、失望せずに「求め続ける」ならば、主イエス様はそれを実現してくださいます。
 主イエス様が実現されることによって、父なる神様はご栄光をお受けになります。
 そして、父なる神様がご栄光をお受けになることによって、私たちの喜びが満ち満ちたものとなるのです。

 

 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。
 信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。ローマ9:31-32

 

 「古い人」は、善い行ないをすれば、神様が求めに応えてくださるのではないかと考えがちです。
 しかし、行ないを根拠として神様に求めることは、自分自身に栄光を帰そうとする傲慢さの表われです。

 

 だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。ヨブ41:11
 

 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。ローマ11:35

 

 私たちには、神様に求めに応えていただくに足る何の力もありません。
 私たちは、ただ父なる神様の愛を信じ、キリストのうちにあって、キリストの十字架だけを根拠として、信仰によって求め続けなければなりません。

 

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。ヘブル11:6
 

 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。エペソ3:12
 

 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。ヘブル4:16

 

 求めましょう。求め続けましょう。
 私たちは、主イエス様の御名によって、父なる神様に、大胆に求めるために、選ばれ、任命されたのです。

 主イエス様。私たちに、もっと大胆に恵みの御座に近づく勇気をお与えください。
 私たちが父なる神様の愛に信頼し、安心して、「素直にお願いして求める」ということを教えてください。
 私たちがどこまでも、父なる神様の愛に信頼し続け、信仰によって、求め続け、主イエス様が実現されることによって、父なる神様がさらに多くのご栄光をお受けになりますように。

 

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16