いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

十字架の「負の連鎖」を断ち切る力

 

 

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。イザヤ53:4-6

 

 私は毎週日曜日、実家で未信者の両親と夕食をともにします。
 その日の食卓には、私の味噌汁だけありませんでした。
 父は心配そうに母に尋ねました。「なぜ彼女の味噌汁がないのか。」

 それは、料理中に母から「あさりの味噌汁も作ろうか。」と聞かれた時、あまり品数を増やすと食べ残してもったいないと思い、「私は要らない。」と答えてしまった結果でした。私は生来草食系なので、母も私があさりが嫌いなのだと思ったのでしょう。
 

 その時、父は、私の記憶にない幼い頃の話を聞かせてくれました。
 ある夜、家族そろって夕食を取り始めると、私がひとりうつむいて、しくしく泣き始めたそうです。
 驚いた父が、「なぜ泣くのか。」と尋ねると、「私のおかずがない…。」と言って、さめざめと泣いたそうです。

 母は5人家族のおかずを、うっかり一皿盛り忘れただけなのでしょうが、次女の私は、「初孫の姉」や、「当家唯一の男子である弟」と比べて、親族から愛されなかったので、おかずがないのを見て、「やっぱり私は、いらない子なんだ…。」と、人生を悲観し、抗議することも、求めることもなく、ただめそめそと泣いていたのでしょう。

 

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。マタイ7:7-11

 

 私はその話を聞かされて、その幼子に同情して、また泣いてしまいました。
 私はキリストの御救いを受け、主イエス様の愛によって、いやされましたが、私の古傷は、いまだに根深く、潜在意識の中に残っていたことを知り、愕然とさせられました。

 それゆえ私は、神様に「何でもほしいものを求める(ヨハネ15:7)」ことができないのだと気づかされました。
 自分の肉の満足のために、勝手なものを求めても、神様はお与えにならないでしょうが、神様が約束してくださったものならば、大胆に、しつこいやもめのように、求め続けなければなりません。

 

 わが神よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、しもべのために家を建てようと言われました。それゆえ、このしもべは、御前に祈りえたのです。Ⅰ歴代誌17:25

 

 私たちがまだ、神の御前に罪人であったとき、神様は私たちを愛してくださいました。

 

 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。ローマ5:5-10

 

 罪を悔い改めて、「神から生まれた者(Ⅰヨハネ3:9)」、「神の子ども(Ⅰヨハネ3:1)」とされた今でも、「生まれながらの私たち」のうちには、悲しいことに、神様から愛されるような、何の根拠もありません。
 しかし、神様はキリスト・イエスのまったき犠牲と従順のゆえに、「キリストのうちにある私たち」の願い、祈りに、喜んで耳を傾けられ、受け入れてくださいます。
 キリストこそ、私たちの救い、私たちの唯一の希望です。

 一方、父は、私の説明を聞くと、妻も顧みず、お妾さんとともに孫たちに偏った愛情を注いだ亡祖父をなじりました。

 

 あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。エゼキエル16:5-6

 

 確かに、この面においては、幼子の私は「被害者」であり、祖父は「加害者」であったかも知れません。私たち生きている者は、曾祖父のことを知らないので、祖父だけが「悪者」扱いされ、話は一件落着してしまいます。
 しかし、この祖父もまた、幼い頃に傷を負った「被害者」だったのではないでしょうか。そして、その先祖もまた…と、遡って行くと、アダムの罪にたどり着きます。

 私たちはみな、どこかで「被害者」なのかも知れません。
 しかし、「私は被害者なのだから、加害者になっても仕方がない。」と、主張することはできません。
 この「負の連鎖」は、どこかで断ち切らなければならないのです。

 

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。イザヤ53:4

 

 十字架とは、すべての「古いもの」を、「断ち切る力」、「終わらせる力」です。
 キリスト・イエスは、私たちの「被害者としての心の病、傷の痛み」を、すべてにない、十字架上で終わらせてくださいました。

 

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。イザヤ53:5

 

 「被害者」としての私たちはまた、自覚、無自覚を問わず、他者に対しては「加害者」でもありました。
 私たちはまた、他者を幾度となく傷つけてきたのです。私たちはみな罪を犯しました。
 それゆえ、キリスト・イエスは、私たちの「加害者としての罪、咎」をも、すべてにない、十字架上で処罰をお受けになり、終わらせてくださいました。

 ハレルヤ!主の十字架は、完全な贖いでした。
 キリストの十字架は、「被害者であると同時に加害者」であった「古い人(ローマ6:6)」の「負の連鎖」を断ち切り、完全に終わらせてくださいました。

 

 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。イザヤ53:10-12

 

 父なる神様のみこころに従って、キリスト・イエスは、私たちの病、痛み、罪、咎一切を贖うために、砕かれ、苦しまれました。

 

 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。創世記9:5

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:23

 

 キリスト・イエスは、私たちを「負の連鎖」のくびきから解放するために、私たちが支払うべき、血の代価を払われ、死の報酬を受け尽くしてくださいました。

 キリスト・イエスは、「ご自分のいのち」を死に明け渡されることによって、「負の連鎖」の中で滅んでいく者であった私たちに、「永遠のいのち」を与え、新しい「いのちの連鎖」の中に、導き入れてくださいました。

 

 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。マルコ10:45

 

 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。
 わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。ヨハネ10:17-18

 

 私たちを「永遠の滅びの連鎖」からお救いになり、「永遠のいのち」、「キリスト・イエスのいのち」の連鎖の中に導き入れるために、十字架をになわれた真実なる救い主に、賛美、栄光がとこしえまでもありますように。

 「永遠の滅びの連鎖」から贖い出された神のしもべたちが、自分の十字架を負うことによって、キリストの尊い御血をもって与えられた「いのちを与える御霊(ヨハネ6:63)」を、内側から溢れ流れさせ、暗やみの世に「永遠のいのちの連鎖」をもたらす者とされますように。

 

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイ10:38-29

 

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ16:24-25