いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

寄留者として、へりくだって歩む

 

 

 けれども、私たちの国籍は天にあります。
 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20

 

 私たちの国籍は、天にあります。
 私たちクリスチャンは、すでにこの世のものではありません。

 

 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。ガラテヤ6:14

 

 私たちは、キリストの十字架によって、この世に対して、死にました。
 私たちは自分の罪ゆえに、キリストとともに、この世に対して死にました。

 

 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ローマ6:8-11

 

 罪ゆえに、死刑に処せられるべきであった私たちは、今は、ただ神に対して、キリスト・イエスにあって、地上で生かされています。
 私たちは、「滅ぼされるべき怒りの器(ローマ9:22)」であったのに、「あわれみの器(ローマ9:23)」として神の「恩赦」を受け、キリストとともによみがえらされて、この世に遣わされた「寄留者」です。

 

 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
 しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。ヨハネ15:18-19

 

 今、私たちは、「自分たちのものではない国に、住まわせていただいている旅人また寄留者」です。
 私たちは、この世における自分たちの立場について、正しく認識しておく必要があります。

 

 彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。
 高ぶらないで、かえって恐れなさい。ローマ11:20

 

 私たちは、キリストの十字架だけを誇りとすべきであって、自分たちが選ばれたこと、救われたこと、キリストの知恵を与えられたことを、この世で誇るべきではありません。
 むしろ私たちは、「この世の人々に在留を許していただいている外国人」として、感謝しつつ、へりくだって歩むことができれば幸いです。
 
 「よそ者である私たち」は、この世の人々から憎まれ、迫害されても、何ら不思議ではありません。
 もしこの世の人々が、「よそ者である私たち」を寛容に受け入れてくださるなら、心から感謝しましょう。
 この世における自分たちの分を正しくわきまえるなら、私たちは身軽にされるでしょう。

 

 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。ヘブル11:8-10

 

 私たちは、「天に国籍を持つ他国人」として、キリストの十字架だけを誇りとし、この世にあっては、ちりあくたに等しい者として、謙遜に歩みましょう。
 たとえ迫害にあっても、驚かないように。
 私たちはただ、この世の人々に、許されて、忍耐されて、置いていただいているのですから。

 

 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて行った。
 そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ。」という意味である。
 もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた。」という意味である。出エジプト18:2-4

 

 私たちは、「外国にいる寄留者」に過ぎませんが、神である主は、私たちをあらゆる試練と困難から、必ず救い出してくださいます。

 しかし、私たちがこの世で救い出されることは、私たちの召しの「焦点」ではありません。
 父なる神様が、私たちをこの世に遣わされたのは、キリストの御苦しみの実を刈り取らせるためです。
 この世にあって、へりくだりつつ、忍耐をもって、刈り取りの働きにあずかりましょう。

 

 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。ヨハネ6:39-40

 
 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」ヨハネ4:38