いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

コントロール志向からの解放

 

 

 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
 自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。ヨブ40:8

 

 私は在職中、「業務カイゼン提案」にいそしんでいました。
 「私」は、いつも「外界」に問題点を見つけ出し、より合理的に、より効率的に、より良い状態にしようと働きかけていました。
 
 そして私は、今も絶えず、「外界にある問題」を「正そうとしている自分」を見出します。
 どうして、あの人は、このように歩まないのだろう…。
 なぜ、この人は、こんな歪んだ見方をするのだろう…。
 どうしたら、この人をまっすぐにできるのだろう…。
 「私」はいつも、「外界をコントロールしよう」としています。
 
 確かに、その人が聖書のみことばに従っていないのならば、悔い改めるべきでしょう。
 もしそこに、神様の喜ばれない状態があるなら、それはまっすぐに正されることが幸いでしょう。
 
 しかし、「外界を正そうとしている私」は、常に「自分自身を義」としています。
 「神の義を振りかざして」、自分だけが真理を悟っているかのような、錯覚に陥っているのです。
 外界をコントロールしようとする性質は、古い私の自己中心でした。

 

 神のみわざに目を留めよ。
 神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。伝道者の書7:13

 

 すべてのことは、「神から発し(ローマ11:36)」ています。
 神ご自身が、主権をもって、それを曲げられたのです。
 私たちは、はかりがたい英知をもって、それを曲げられた、神である主を畏れなければなりません。
 「曲がったもの」に目を留めるようにと、私たちを導かれた、神である主の御前にひれ伏しましょう。
 

 神がそれを私たちにお見せになったのは、私たちが「自分を義とする」ためではなく、「私たちがそれを正す」ためでもありません。
 ただ、私たちが「神のみわざ」に目を留めて、自分の内側に照らし出された「私自身の罪」を悔い改めるためでした。

 

 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。Ⅰコリント3:6-7

 

 「神が曲げられたもの」を、まっすぐにできるのは、神ご自身だけです。
 私たちは外界をコントロールしようとすることを放棄しなければなりません。
 私たちは、あくせくと外界をコントロールする虚しい労苦から、すでに解放されました。

 

 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。Ⅱペテロ1:5-8

 

 私たちがコントロールすべきは、「外界」ではなく、「自分自身」でした。自分自身を制御する、これが自制でしょう。
 みことばは教えていました。知識には、自制が必要です。それも、並大抵の自制では足りません。粘り強く、耐え忍んで、自制し続けなさい。
 もしあなたが、この道を進んで行くのなら、キリストを知る点で、役立つ者、実を結ぶ者となるでしょう、と。

 

 闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。Ⅰコリント9:25-27

 

 私たちは地上の短い人生で、「神のために役立つ者」でありたいものです。
 そのために私たちは、「焦点ぼけ」した歩みをしないように、よくよく注意しなければなりません。
 決勝点をよく見極めて、ただ神のために、忍耐をもって自分自身を制御し続けましょう。

 

 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。Ⅱコリント3:16-17

 

 「外界の問題」に目を向けるのではなく、「主」に心を向けましょう。
 そして、「曲げられたもの」をお見せくださった「主の深いみこころ」をよく吟味し、まず自分が悔い改めるべき点を悔い改めましょう。
 そして、成長させてくださる主に信頼してへりくだり、自分自身を含め、すべてものがまっすぐに正されるように、安息して祈りましょう。

 

 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マタイ9:13

 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。マタイ12:7

 

 「曲がっているもの」が見えないこと、「曲がっていること」に気付かないことは、罪ではありません。

 もし私たちの目が、今、見えているのなら、それはただ神様の恵みです。
 私たちが立派だからでも、賢いからでもありません。
 

 もしかしたら、曲がっているのは、「外界」ではなく、「私たちの目の方」かも知れないのです。
 私たちは、どこまで行っても、真理に対しては永遠に無知な幼子なのです。
 私たちは、ただ神である主を畏れましょう。

 

 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」ヘブル8:10-12

 

 「不義にあわれみをかけ」、「罪を思い出さない」。
 あわれみそのものであられる、この神の偉大さの前に、私は言葉を持ちません。
 神はまったき聖であられ、「自分を義とした私」は汚れ果てていました。

 

 ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
 一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。ヨブ40:4-5

 

 このように神のさばきに無知で、傲慢な私にさえも、あわれみをかけ、罪を赦してくださった尊い父なる神様と、聖いいけにえとなってくださった主イエス様の御名がとこしえにほめたたえられますように。

 

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。哀歌3:22-23