いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

ただ主を畏れて、悔い改めに進む

 

 

 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
 
 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。黙示録3:17-19

 

 黙示録に登場する7つの教会のうち、最後の教会はラオデキヤにある教会でした。
 彼らは、「富んでおり、豊かで、乏しいものは何もない」かのようでした。

 終わりの時代にあって、私たちの周りには、多くの信仰書、聖書の学び、メッセージが満ち溢れています。
 これらは、多くの先人達が言葉に尽くせないほどご労苦され、苦しみを通して主イエス様からいただいてきた教えの集大成でしょう。
 

 今、私たちはこの「労苦の実」を、さしたる犠牲も払わずに、いともたやすく手に入れることができます。
 そして、多くのクリスチャンたちは、実に知識に富んでおり、雄弁です。
 知らないことなど、何もないかのように、あらゆる質問に、何のためらいもなく答えています。

 私たちはあたかも神のようです。
 私たちはあまりにも「主を畏れる」ということを知りません。

 

 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイ4:17

 

 罪の世に降りて来られた主イエス様の最初のメッセージは、「悔い改めなさい」という勧めでした。
 私たちクリスチャンは、罪を悔い改めて、主イエス様の贖いを信じ、永遠の滅びから救われました。
 今や、私たちは神の御目には、キリストのうちにある義人です。
 しかし、肉体を持った私たちは地上のいのちの日の限り、悔い改め続けなければならない罪人です。

 

 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。Ⅰヨハネ1:8-10

 

 私たちは、愚かさゆえに自分で気付くことができなくても、いつも罪を犯しています。
 私たちの考えている義のレベルと、神の義は、まったく異なるものです。
 私たちは、まったき聖であられる神を、本当に畏れなければなりません。

 

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1:15

 

 パウロは、救われる以前から、「律法による義についてならば非難されるところのない者(ピリピ3:6)」でしたが、信仰者として走り通した晩年の手紙においてさえ、自らを現役の「罪人のかしらです」と証言しました。
 私たちは、どれくらい自らを「罪人である」と認識しているでしょうか。
 

 贖われていない未信者にとって、「罪人であること」は、「神との交わりが絶たれた者」であることを意味しています。
 しかし、贖われたクリスチャンは、すでに神との交わりが回復されているので、「罪人であること」は、「神の赦しとあわれみが必要な者」であることを意味し、その自覚こそ、より神との深い交わりに進む結果を生じさせます。
 すでに「富んでいて、乏しいものが何もない」と感じているのなら、神様のみそばに近づく必要性も薄れるでしょう。

 

 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

 

 私たちは、地上のいのちの日の限り、悔い改めに進まなければなりません。
 私たちは、初めて悔い改めた時に、救われました。
 私たちは、同じ福音によって、悔い改めるたびに、救われ続けます。
 

 「富んで、豊かになってしまう」ことは、実に恐ろしいことです。
 その人は、横に肥え太り、もう上に進んでいくことは困難です。
 体重も重くなり、現状維持さえ危うく、福音から滑り落ちてしまうかも知れません。

 

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。マタイ5:3

 

 主イエス様の宣教は、「悔い改めなさい」で始められ、黙示録に至るまで、繰り返し「悔い改めなさい」と勧めておられます。
 そして、最後に「悔い改めようとしなかったものたち」をおさばきになりました。

 

 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。ルカ5:32

 

 主イエス様は、私たちを悔い改めに導くために来てくださいました。
 私たちが「罪人である」ことを認めるならば、主イエス様は私たちを招いてくださいます。
 

 ある兄弟はこんな風に学ばれました。
 この世では、罪を告白するとさばかれます。しかし、聖書には「自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(Ⅰヨハネ1:9)」すと書いてあります。これは素晴らしい福音です。「自分の罪を正直に認めること」を神様は喜ばれます。
 

 もし私たちが、なかなか自分の罪に気付くことができないなら、賢い神様は私たちが気付くことができるように導いてくださいます。

 

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ヘブル12:5-11

 

 「懲らしめ」は、愚かな私たちが、自分の罪に気付き、自分の罪を認め、悔い改めによって、きよめられるためです。
 懲らしめや叱責を受けたなら、私たちはむしろ感謝して、主の御前にへりくだって良く吟味しなければなりません。
 そのときは辛くて、悲しくても、主イエス様の導きに従って悔い改めるならば、私たちは救われ、きよめられます。
 

 「悔い改めた者だけが、救われる」、この原則は、最初の救いから、一貫しています。
 もし私たちが、救いの喜びを忘れかけてしまっているのなら、今すぐ、主イエス様によって、自分の罪を教えていただき、悔い改めて、救われましょう。
 悔い改めた者は、必ず、救いの喜びにあずかります。

 

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ53:5

 

 恐るべきことに、主イエス様は、自ら進んで、「懲らしめ」をお受けになられました。
 それは、「主イエス様の打ち傷によって、私たちがいやされる」ためでした。
 私たちも、懲らしめを受け、悔い改めるならば、自分自身を救うばかりではなく、他の人をもいやすことにつながるのではないでしょうか。

 

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。ピリピ2:6-12

 

 私たちも、死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順に、畏れおののいて、悔い改めに進みましょう。そして、自分の救いを達成しましょう。

 

 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。ヘブル12:14
 

 だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。Ⅱテモテ2:21