いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

最後まで耐え忍ぶ者は救われる

 

 

 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。

 「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。ルカ7:41-48

 

 今朝、ラルフ・W・リックマン(フランスの思想家)の言葉に出会いました。
 「愛する相手に借りがある。いつもそう感じている人こそ、本当に愛しているのです。」

 この方がクリスチャンであるかどうかはわかりませんが、この言葉を読んで、思わず「然り、アーメン」と思いました。
 

 「あの人には、本当にお世話になった。あの人には恩義がある。一生かかってもそのご恩には、報い切れない。」
 「あの人には、大変申し訳ないことをしてしまった。その過ちは、自分のいのちをもってしても、到底、償い切れない。」

 人には、様々な種類の「借り」があります。
 「多く借りている」と思う人は、確かに、その人のために「善いことを報いたい」、その人を「少しでも喜ばせたい」と願います。これは、その人を愛することにつながります。
 

 もし、現実に「借り」を負っていたとしても、「相手に借りがある」と感じていなければ、それほど相手を愛したり、敬ったりすることはないでしょう。
 「借り」を感じていない人が、相手に「善いことを行なう」ならば、それは、上から目線の「~してあげる」という、どこか恩着せがましいものになりがちです。
 「行ないにおいて愛」であっても、「心において愛」ではないという危険性は、いつも私たちのうちにあります。
 

 私たちクリスチャンは、本当に多くの「借り」がある負債者です。
 このことを真に覚えなければ、私たちは本当に人を愛することなどできないでしょう。

 私たちの周りには、多くの人々が与えられています。
 ひとりひとりに、どれほど多くの「借り」があるか、ひとつひとつ思い出してみることは、とても幸いなことです。
 多くの「借り」を思い出すことができればできるほど、私たちはその人に感謝し、より多く愛するように導かれるでしょう。

 

 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。ローマ1:14-15

 

 パウロは、一度も出会ったことがないような人々にまで、「返さなければならない負債を負っている」と感じていました。
 それがどのような種類の負債であるかは書かれていないので、知る由もありませんが、そこにキリスト・イエスが介在されていることは確かでしょう。

 私たちは、見知らぬ人にまで「借り」を実感することは困難ですが、少なくとも、主イエス様に対しては、返しきれない負債と恩義があります。
 このご恩、この「借り」を、少なく見積もるか、多く感じるか。これは、私たちの歩みを決定します。
 パウロは、見知らぬ人々にまで、莫大な負債を負っていると感じました。それゆえ、遥か彼方の人々にまで、福音を伝えるために、全力で走り通しました。

 

 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。
 けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。
 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。Ⅰペテロ2:19-21

 

 しかし、恩返しをしたからと言って、「良い報い」があるとは限りません。
 借金を返したからと言って、誰がほめてくれるでしょう。それは、当然、返さなければならないものなのです。
 勘違いしないように、よくよく注意しましょう。
 

 借金を返すことは、貸借関係を帳消しにすることですが、ときには、「不当な苦しみ」が返ってくることがあると聖書は予告しています。

 神様は私たちに、「善を行なうこと」を望んでおられます。
 しかし、「善を行なう」だけなら、「異邦人でも同じことをするではありませんか(マタイ5:47)」
 実際、私は、至らないクリスチャンの私などよりはるかに素晴らしい善を行なっている多くの未信者を知っています。
 

 聖書の予告は、「善を行なって苦しみを受ける」ということです。
 しかし、私たちが「苦しみを受けること」も、実はたいしたことではありません。世の中には、生まれながらに重荷を負って苦しんでいる方々もおられるのです。
 ストイックな修行者は、苦しみを受けること自体が立派なことであるかのような錯覚に陥る危険性があります。
 

 重要なのは、「善を行なって苦しみを受けること」ではなく、「それを耐え忍ぶこと」でしょう。
 「私は善を行なって、こんな苦しみを受けました!」というのは、誇りにはなりません。
 「私は善を行なって、こんな苦しみを受け、それでも耐え忍んでいます!」と人前で発表するのは、耐え忍んでいない何よりの証拠でしょう。

 

 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。マタイ6:1-4

 

 「耐え忍ぶ」とは、隠れてすることなのでしょう。
 誰も知らないところで耐え忍んでこそ、父なる神様は御目を留めてくださいます。
 私たちが召された目的の「焦点」は、「耐え忍ぶこと」ではないでしょうか。
 これこそ、私たちが隠され、父なる神様のご栄光だけが現わされる奥義でしょう。

 

 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。
 見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。ヤコブ5:7

 次のことばは信頼すべきことばです。
 「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。Ⅱテモテ2:11-12

 

 私たちが耐え忍んだのではなく、主イエス様が私たちのために耐え忍ばれたのです。
 私たちが耐え忍ぶのではなく、主イエス様が私たちのうちにあって、耐え忍んでくださいます。
 主イエス様のうちにあって、主イエス様とともに、耐え忍びましょう。

 そうして、私たちが愛して止まない父なる神様のご栄光だけが現わされますように。

 

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。マタイ10:22
 

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。マタイ24:13