いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

主を畏れる愚か者の幸い

 

 

 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
 愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。箴言12:15-16

 

 「愚かであること」それ自体は、罪ではありません。
 幼子とは、たいてい愚かなものです。
 しかし、「愚かであること」は、喜ばしい状態ではありません。
 
 愚か者の主要な特徴とは、「無知」でしょう。
 愚か者は、一面では事実を知っているかもしれませんが、すべてを知りません。つまり、「真理に対して無知」なのです。

 

 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ9:41

 

 「盲目」で「無知」であること、それ自体は、罪ではありませんが、「私は目が見える」と主張することは罪でした。
 それは、「真理であられる神」に対する不敬虔であり、「自分を神とする」不遜、傲慢でした。

 

 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。箴言1:7

 

 「私は盲目である」、「私は救い難い愚か者である」という厳粛な事実を、素直に認めることは、私が主イエス様から教えられてきたことの中で、最も有益なことでした。
 なぜなら、キリスト・イエスは、「この救い難い愚か者」を救うために、尊いご自身のいのちをお捨てくださったことを、より深く覚えることができたからです。

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 

 群衆は、キリスト・イエスを、「自分を神とする不遜、不敬極まりない罪人」と思い、「神の栄誉を守るために」、「十字架につけろ」と叫んでいました。
 愚かで、盲目な彼らは、キリスト・イエスが、神ご自身であることを知りませんでした。
 彼らは、「自分は神を尊んでこのことをしている」と思っていました。
 彼らは、「自分は目が見える」、「自分は真理を悟っている」と思っていました。
 彼らは、まさに「自分を神としていた」のです。

 しかし、キリスト・イエスは、このような愚か者たちをお救いになるために、十字架で御血を流されました。
 この尊い十字架のみわざによって、私たちには永遠のいのちが与えられました。

 

 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。ヨハネ17:3

 

 「神とイエス・キリストを知る」ことは、「自分の愚かさを知る」ことと対になっています。
 「神ご自身の偉大さ」を知れば知るほど、「私の愚かさ」の自覚はいや増します。
 しかし、私は落ち込むことはありません。
 なぜなら、私が愚かであればあるほど、神の恵みはより深く、より偉大なものとなるからです。

 

 愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る。箴言14:3

 

 知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。箴言14:16

 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。Ⅰコリント8:2

 

 イエス・キリストは、真理です(ヨハネ14:6)。
 しかし、私たちは真理ではありません。私たちは、永遠にイエス・キリストを知り続けるいのちをいただいていますが、どこまで行っても知っていることは常に一部分に過ぎません。

 

 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。Ⅰコリント4:3-5

 

 さばく方は、真理であられる主ご自身です。
 私たちは「さばく義務」から解放されています。

 

 あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。ローマ2:1

 人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。箴言16:2

 

 他人をさばく思いが出て来る時、冷徹に自分自身を吟味するなら、確かに私自身にも似たような罪があるのです。
 「そこにある問題」は、常に私自身の悔い改めのためです。

 

 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。ユダ9

 

 もしその人にも問題があるならば、「その人」は主が戒めてくださいます。

 

 さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。マタイ7:1-5

 

 私たちがへりくだって、自分自身を吟味し、みこころにしたがって悔い改めるならば、愛する兄弟姉妹のちりを取り除く働きに与ることもできるかも知れません。
 それは、ただ恵みの働きでしょう。
 私たちは、すべてのことから、神とイエス・キリストを学び、知ることができます。

 私たちは、「自分が愚か者であること」を忘れないようにしましょう。 
 これは最も有益で、幸いなことです。

 

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。Ⅰコリント1:27-29

 

 私たちが「愚かな者であること」を謙虚に認めるならば、私たちは「ただの愚か者」ではなく、「主を畏れる愚か者」となります。
 あわれみ深い父なる神様は、「主を畏れる愚か者」を喜んで選んでくださいます。
 神のはかり知れない恵みの前に、安息し、心を開いて「自分は愚かな者であること」を受け入れましょう。
 このように愚かな者をも愛してくださる神様に賛美、栄光、誉れ、いっさいのよきものが帰せられますように。

 

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。箴言3:5-7