いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

人を愛するとは、「傷つくリスクを負う」ということ

 

 

 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。Ⅰヨハネ4:18

 

 人を愛するとは、「傷つくリスクを負う」ということです。

 私がどんなにその人を愛しても、その人は私のことを愛してくれないかも知れません。このことは、私の心をひどく傷つけます。
 傷つくのが怖い人は、決して人を愛することができません。
 人を愛するとは、「傷つくリスクを取る」ということです。
 本当に愛するならば、「傷つけられるかも知れない」という恐れなど、乗り越えてしまうでしょう。

 

 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。Ⅰヨハネ3:16

 

 傷つくことの最たる例は、死でしょう。
 キリストは、神に反抗する私たち罪人を愛して、ご自身のいのちをお捨てになるというリスクを負われました。
 もしその人が、あなたのために傷つくリスクを負ってくださっているのなら、その人は本当にあなたのことを愛しているのです。

 

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。創世記2:16

 

 神である主は、ご自身でお造りになった「人」を喜ばれ、祝福してくださいました。
 神である主は、初めに、「人」に自由を与えてくださいました。
 今、私たちは、どの木からでも、思いのままに、食べることが許されています。
 

 しかし、「自由」とは、用いようによっては、大変、危険なものです。
 複数の人間が存在する社会で、各自がまったく自由に振舞うならば、「それぞれの自由」が衝突し、無秩序と混乱が生じてしまいます。
 それゆえ神は、「自由には制限がある」ことを教えられました。

 

 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 創世記2:17

 

 神である主は、最初の人アダムに、ひとつだけ制限があることを教えられました。
 そして、その制限を踏み越えた場合の「報い」について、警告されました。
 これは「罰」ではありませんでした。食べるなら、「罰として殺す。」と言われたのではありません。
 「あなたの選んだ行ないの当然の報いとして、必ず死ぬ。」という単純明快で、厳粛な「事実の告知」でした。
 

 神である主は、人に自由意志をお与えになりました。これは素晴らしい祝福でした。
 人は地上のいのちの日に、自由意志を用いて、良いことも、悪いことも、選ぶことが許されています。
 しかし、厳粛な事実は、神である主が禁じられたことを選ぶならば、「必ず死ぬ」ということです。
 私たちは、たとえ心臓が動いていても、「死んでいる」ような状態に陥ることがあります。もし神である主が禁じられたことを選んでいるなら、私たちは必ず死んでいます。
 

 神である主は、私たちに「祝福として」自由意志をお与えになりましたが、私たちはその自由意志を用いて、神である主に反逆しました。
 私たちは、自分勝手な「善悪の知識」を振りかざして、このお方を神と認めず、また主として従いませんでした。
 私たちは、その「当然の報い」として、死んでいました。
 しかし、神は、それでもなお、こんな醜い私たちを愛し続けてくださいました。

 

 わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。イザヤ65:1-2

 

 愛なる神は、人に「祝福」をお与えになられたのに、人から「反逆」で報いられ、大いにみこころを傷つけられました。
 しかし、愛なる神は、「当然の報い」として滅びて行く私たちを、黙って見過ごすことがおできになりませんでした。
 愛なる神は、私たち罪人を愛して、さらに傷つくリスクを負われました。

 

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ローマ5:8

 

 キリストは、ご自身のいのちをお捨てになり、「傷つくリスク」の極みを負ってくださいました。
 しかし、キリストは、私たちに、「それでもなおキリストに従わないことを選択する」自由を与え続けておられるのです。
 これは、さらに「傷つくリスクを負い続ける」ということでした。

 

 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。Ⅱコリント12:15

 

 パウロは、神ご自身からゆだねられた「福音の務め」のために、人々を愛し、徹底的に「傷つくリスク」を負い続けました。
 キリスト・イエスが、人々を愛して、善を行ない続けた挙句に、あざけりとののしり、つばきとこぶし、そして十字架の死を報いられたように、パウロも福音宣教のために、人々を愛し、自分自身を使い尽くして、多くの悲しみと苦しみを報いられました。
 

 私たちは、どうすべきでしょうか。
 「傷つくリスク」を取ってまで人々を愛するよりも、自分自身を愛するでしょうか。
 「傷つくリスク」を負わない程度に、人々を愛するでしょうか。
 私たちには、なお自由意志が与えられています。

 

 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
 
 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。Ⅱテモテ4:2-8