いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

善によって悪に勝つ、死によっていのちを与える

 

 

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:5

 

 光は、やみに勝利しました。
 光は、力強くやみを照らし出し、隠れた暗やみのわざを露わにされます。
 悪い者は、もはや隠れおおせません。
 悪い者は、光によって、打ち倒されます。
 光は、やみに勝利しました。
 

 「神の方法」の優れた芸術性、類まれなる美しさは、私たちを圧倒します。
 神の完全な勝利の方法は、きよく美しい光である「イエス・キリスト」でした。「十字架とよみがえり」でした。
 「最後のアダム(Ⅰコリント15:45)」であるキリストの勝利の方法は、破壊と悲惨をもたらす、血で血を洗うような血生臭い戦いではありませんでした。

 

 子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。ヘブル2:14-15

 

 神は、決して死ぬことがおできになりません。そこで、御子イエス様は、神であられるお方なのに、「死ぬべき人」の姿をおとりになり、罪の世に降りてきてくださいました。
 キリスト・イエスは、「十字架の死によって」、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、神によってよみがえらされ、死に勝利されました。
 死によって、死を滅ぼし、死に勝利する。実に不思議な勝利の方法です。

 

 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。ローマ6:9

 

 もはや死は、キリストに何の効力も及ぼすことはありません。
 キリストは、父なる神様に従順であり、人に対してへりくだられ、誠実、忍耐をもって善のみを行なわれました。その善に対する報いは十字架でしたが、十字架の死に至るまでの従順によって、ついに死に勝利されました。
 罪も汚れもない小羊のような、このきよく、従順な、まったきいけにえは、私たち罪人の汚れた良心を刺し通しました。

 

 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ12:21

 

 善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。Ⅰペテロ2:15

 

 悪に打ち勝つ神のみこころは、悪をもって報い、悪と戦うことではありませんでした。
 悪に勝利する神のみこころは、「善を行なうこと」です。
 神は私たち人間に、良心をお与えになりました。
 私たちが善に熱心であるなら、悪者たちの邪悪な良心は、見えない剣で刺し通され、やがて勝利をおさめるでしょう。

 

 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。詩篇37:3-7

 

 しかし、単に「善に熱心である」だけでは、真に勝利をおさめることはできません。
 私たちは、ただ「悪に勝利する」だけではなく、「律法に対しても勝利する」必要があります。

 邪悪で、曲がった終わりの時代にあって、地上には悪がはびこる一方で、善が失われている現状に良心を痛めている善良な人々も、少なくありません。
 今、悪魔は、こうした善良な人々の心を惑わし、「キリストの十字架抜きの善行」に励むようにと、駆り立てています。

 私のようにろくでもないクリスチャンとは比較にならないほどの「尊敬すべき善良な未信者の人々」が、「キリストの十字架抜きの善行」にからめとられて行くのを見ることは、本当に胸の痛むことです。
 私たち人間は、善行によって救われることは決してないからです。

 

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
 なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。ガラテヤ2:16

 

 彼らは、「キリストの十字架抜きの善行」によって、「自分の霊的成長」を覚え、そこに喜びを見出すのだと語ります。
 私は彼らにどうやって福音を宣べ伝えることができるのでしょう。
 もし私が、彼らと「善行競争」を試みるならば、私は確実に敗北するでしょう。

 

 もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。ガラテヤ2:18-21

 

 彼らと私たちの圧倒的な違いは、「キリストの十字架」です。
 「キリストの十字架」は、「古い私」「生まれながらの私」を終わらせてくださいました。
 「古い私」には、何の価値もなく、ただ死に値するのみです。
 「死しか値しない古い私」を「霊的に成長させる」ことは不可能です。捨て去るのみです。

 私たちはキリストとともによみがえらされました。
 新しい人は、今、キリストのうちにいるのです。

 

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。Ⅰヨハネ5:20

 

 このキリストは、善しか行なうことができません。 
 「死んだ私たち」ではなく、このキリストが、私たちのうちに働いて、善を行なってくださるのです。
 キリストは、善を行なうことを望んでおられますが、善を行なうことはプロセスであって、最終目的ではありません。

 

 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。マルコ10:45

 

 キリストは、善を行なうためにではなく、「永遠のいのち」を与えるために、来られたのです。
 キリストの目的は、「永遠のいのち」です。

 

 もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。ガラテヤ3:21

 

 「キリストの十字架抜きの善行」であっても、「善」は悪に勝ります。
 「善」は、素晴らしいものです。
 しかし、「律法による善」は、人にいのちを与えることができません。
 これは、重大な欠陥です。「律法による善」は、最終的に空しいものです。

 彼らと私たちの圧倒的な違いは、「永遠のいのち」です。
 私たちは、「善行それ自体」が目標とならないように、悪魔に欺かれないように、よくよく注意しなければなりません。
 私たちは、キリストから与えられている「永遠のいのち」を人々分け与えることを、しっかりと目標に据えて、キリストのうちにあって善を行ないましょう。
 人々に「永遠のいのち」を供給するために、忍耐をもって善を行ない、悪に打ち勝ちましょう。

 

 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネ6:63

 

 私たちに与えられている御霊は、「生ける水の川が流れ出るように(ヨハネ7:38)」人々にいのちを供給してくださいます。
 私たちは十字架を取ることによって、かたくななたましいを切り裂き、御霊を解放することができます。
 聖書のみことばは、霊であり、いのちです。
 与えられている御霊から、聖書のみことばと、永遠のいのちを、溢れるばかりに解き放ちましょう。

 

 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。マタイ16:19

 

 いのちを与えてくださる御霊が、私たちのうちに力強く働かれ、溢れるいのちを解放し、暗やみにいる人々に豊かないのちを供給してくださいますように。

 

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。Ⅱコリント4:8-12