いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

恐れなく胸を開いて、乳を与える

 

 

 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
 夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。

 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、主のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。Ⅰサムエル1:20-23

 

 もし幼子が、私たちに乳を求めるのなら、私たちは胸を開いて、その子に乳房を与えなければなりません。
 お腹を空かせた幼子に対して、私たちは「今、忙しいから。」とか、「今は、そういう気分ではない。」などと、言うべきではありません。
 その幼子は、もしかしたら私たちの拒絶によって、死んでしまうかもしれません。
 

 幼子はどこに行けば乳を飲むことができるかを、確実に嗅ぎ分け、乳のあるところに近づきます。
 もし幼子が、私たちのところに来るのなら、私たちの乳房には乳があるのです。
 

 「私の乳房からは乳は出ない。」と思ったとしても、幼子が私たちに近づいてくるのなら、乳が出るはずです。
 もし、私たちが幼子のために、恐れることなく胸を開くなら、幼子は乳が出るまで、力強く吸い続けてくれるでしょう。
 幼子の生命力は、私たちのからだを成長させてくれるでしょう。

 

 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。ルカ15:16

 

 人は極めて厳しい状況にあるとき、食べるべきではない物さえ、口にしてしまうかも知れません。
 だれひとり与えようとしないなら、彼は健全ないのちを生きることができないでしょう。
 私たちは、自らすすんで、手を開き、分け与えようとしているでしょうか。

 

 ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ルカ10:30-32

 

 日本のクリスチャン人口が、もし1%であるとしたら、繁華街を歩いている人々の100人のうち99人は、確実に滅びるのです。
 彼らは肉の目にはあたかも生きているように見えますが、霊の目を開くなら、永遠のいのちを持たない死人です。
 この国は、実に死人に満ち溢れています。
 私たちは、この現実をちゃんと見ているでしょうか。

 

 まだ眠って休んでいるのですか。マルコ14:41

 

 私たちには、永遠のいのちが与えられています。
 このいのちは、どのようにして、私たちにもたらされたのでしょうか。

 

 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。Ⅰペテロ1:19

 

 私たちは、いつまで「自分の困難」に目を留めているのでしょうか。
 いつまで「自分の現状」をあわれんでいるのでしょうか。

 

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。マルコ8:34-35

 

 私たちの「古い自分」は、既に終わりました。
 もう私たちは「古い自分の必要」を心配する労苦から解放されたのです。

 

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

 

 「既に永遠のいのちを与えられている自分」を顧みる生活をやめ、「永遠のいのちを持たない他の人々」を顧みましょう。

 

 あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 ルカ10:33-35

 

 彼は、「自分の必要」ではなく、「他の人の必要」を顧みました。
 彼は、他の人に関心とあわれみの心を持ち、近づきました。
 「なぜこのような状態になったのか」と問い詰めたり、理屈を教えたりしませんでした。
 彼は、黙って、注ぎ出し、自分にできる範囲で応急処置を施しました。

 しかし、彼は自力で解決しようとはしませんでした。
 彼はさらなる犠牲を払って、「主人」の手に委ね、「主人」にお願いして言いました。
 もし犠牲が足りなければ、私にはさらに支払う覚悟があります。
 

 私たちの心は、この主イエス・キリストのお心から、あまりにもかけ離れてはいないでしようか。
 私たちは、キリストのうちにあるのです。
 もっと深くキリストの心に入り込み、キリストの心に浸されましょう。
 この主イエス様と、もっと一つ心になりますように。
 私たちの思いが、私たち罪人のためにご自身のいのちをお捨てになられた主イエス様の御思いと、まったく一つになりますように。

 

 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。Ⅱ歴代誌16:9