ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。 ヨハネ5:42
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 ヨハネ6:53
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。 ヨハネ8:44
主イエス様は、はっきりと、こう言われました。
「あなたがたのうちに」は、神の愛がなく、いのちもなく、真理もない、と。
自分自身を正直に省みるならば、これは本当に真実な言葉だと、告白せざるを得ません。
このことを常に、忘れないことは、信仰生活の原点であると思います。
私は、しばしば倒されて、「私は本当に役に立たない…。」と教えられます。
このことは、私にとって、非常に有益です。
しかし、このとき、私はつい、「自分」が、「どれくらい、役に立たないか」、「どの程度、くだらないか」という自己分析に長い時間をかけ、悲劇の主人公として、甘い絶望感の中に浸ってしまいます。
これは、実に無益で、非常に有害です。
「自分が役に立たないこと」は、絶えず、自覚していなければなりませんが、私たちは、この回路にとどまっているべきではありません。
なぜなら、私たちのこの「古い人」は、すでに死んでいるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 ローマ6:6-7
いったい、「死人」について、分析、評価して、何の役に立つのでしょう。
「故人」が、生前どれくらい有能であったとしても、どれほど無能であったとしても、生きている私たちには、何の効力も及ぼしません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ローマ8:9-11
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 Ⅱコリント5:17
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 コロサイ1:13-14
確かに、「古い人」、「死者」である「私たちのうちに」は、神の愛も、いのちも、真理も、ありません。
しかし、私たちクリスチャンは、今、「新しい人」となりました。
「新しい人」は、今、「御霊の中に」、「キリストのうちに」、「御子のうちに」、あるのです。
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 コロサイ3:9-10
「自分は無益である」ことを、主によって教えられたなら、瞬時に、「キリストのうちにある」ことを、しっかりと確認しましょう。
すべては、「キリストのうちに」あり、「キリストのうち」以外の場所には、有益なものは何一つありません。
聖書には、「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられる(Ⅱコリント1:35)」という表現もありますが、それは、まず「私たちがキリストのうちにある」ことが、大前提です。
自己中心的な私は、しばしば、自分は「キリストのうちに」とどまらずに、キリストだけが「私のうちに」とどまってくださることを願っていることを見出します。言うまでもなく、こういうことは、あり得ません。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。 ヨハネ15:4
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 ヨハネ15:5
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 ヨハネ15:7
キリストに、「私たちの中に入って来てくださることを求める」のではなく、「私たちがキリストの中に飛び込む」のです。
私たちは、キリストを「獲得する」ことによって、「自己」を肥え太らせる、「金持ち青年(マタイ19:20)」を目指すべきではありません。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」 ルカ19:46
私たちは、「自己」を養うために、キリストから、「自分の欲しいパーツ」を盗むことはやめましょう。
私たちは、すでに「キリストにあって」、すべてのものを持っているのです。もはや盗む必要はありません。
「私のうちに」は、「神の愛」がありません。
しかし、私は「神の愛」を盗む必要はありません。
「神の愛」は、「キリストのうちに」あるのです。
私は信仰によって、「キリストのうちに」飛び込みます。
すると、「私の内側も」、キリストで水浸しになります。
そのとき私は、私を取り囲んでいる「キリストの愛(Ⅱコリント5:14)」と、私の心に注がれている「神の愛(ローマ5:5)」によって満ち溢れていることを、確かに確認するのです。
喜びましょう。
私たちは、この「キリストのうちにある(在る)」ことによって、「キリストのうちにある(有る)」すべての資産を「適用して」、キリストのみわざにあずかることができるようになるのです。
私たちは、日々、新たに、無償で、「キリストのうちにある」すべての資産を、惜しみなく「適用する」ことが許されているのです。
この資産を、「蓄積しよう」と試みてはいけません。もし、蓄えるなら、それは必ずマナのように「虫がわき、悪臭を放つ(出エジプト16:20)」でしょう。
しかし、神である主は、私たちを、あくせくと蓄財を試みる、空しい労苦から解放してくださいました。
この「キリストのうちにある」資産は、永遠に尽きることはありません。
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 マタイ19:21
「金持ち青年」たちよ。
安心して、すべての持ち物を売り払いましょう。
そして、信仰によって、「キリストのうちに」、飛び込みましょう。
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 コロサイ2:3
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。 コロサイ2:9-10