いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 Ⅱコリント4:10-11
「善悪の知識の木(創世記2:9)」にどっぷりと浸って半生を過ごしてきた私は、自分が「論理の囚人」、「義の囚人」であったことを教えられ、本当に「いのちの木(創世記2:9)」に生きたい、「イエスのいのち」そのものになりたいと強く願うようになりました。
人がもし、「イエス・キリストって、どんな人?」と、尋ねたのなら、私は、「地上では、私のように生きた人です。」と言えなければなりません。
なぜなら、私たちは、すでにそのように生きることのできる「イエスのいのち」をいただいているのですから。
「私のようなつまらない者は、とてもとても…。私など、イエス・キリストには、似ても似つきません。」などと言うのは、謙遜でも何でもありません。
それは、主のみわざを侮辱するものに他なりません。
私たちクリスチャンは、「キリストの御霊(ローマ8:9)」を受けたのです。私たちは、自分自身がたとえそのように感じなくとも、今すでにキリストとひとつ、父なる神様とひとつとされているのです。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ローマ8:9-11
キリストにある「成人である者(ピリピ3:15)」は、キリストとひとつであることを、その生き方によって、この世に対して示していかなければなりません。
私たちクリスチャンは、「昼間らしい、正しい生き方(ローマ13:13)」、「神を恐れかしこむ清い生き方(Ⅰペテロ3:2)」、「キリストにあるあなたがたの正しい生き方(Ⅰペテロ3:16)」によって、キリストを現わし、暗やみの中に閉じ込められている人々が、キリストを見ることができるようにと、召されたのです。
「私はイエスのいのちそのものでありたい」と、心のうちで願い始めたとき、恐ろしいことが起こりました。
まだ信仰を持っていない私の肉の母が、私の肉の性質の実に正確なコピーである、極めて強情で傲慢な私の母が、私に向かって言いました。
「あなたはキリストに似ていない。」
私は、ほとんど死にそうになりました。これは、まさしく主から出た言葉だと悟りました。
「…、…。だ、だから、今日まいた種がすぐに芽を出さないように、クリスチャンの成長には、時間がかかるのであって、私は自分の力では決して良いことができない者に過ぎず、私にできることは、ただキリストに似た者になりたいと意志を持って祈ることだけであって、そのようにしているのだけれど、私はすぐには変わらないのであって…。でも、マザー・テレサという人は、そのように生きた人で…。」
ごちゃごちゃと腐った言い訳をしている私に、主の御声が響きました。
「あなたは、他人(ひと)の信仰で、相撲を取るな!」
然り。アーメン。
私たちは、いったいいつまで、数百年前の先人たちまで担ぎ出して、他人(ひと)の信仰で相撲を取り続けるのでしょうか。
私たちは、自分の信仰で、自分の生き方を通して、みことばを実践していかなければなりません。
いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。 マタイ19:17
主イエス様のこのみことばが聞こえて、目が覚めました。
聖書は、旧約の時代から、一貫して、「戒めを守る」、「みことばを守る」ことを教えています。
私はずっと、この「守る」ということばを、「頭の記憶の中にとどめておくこと」のように、勘違いしていました。
そして、私はようやく、「みことばを守る」とは、「みことばを実行すること」であることを悟りました。
「永遠のいのち」は、ただ持っているだけでは、誰も救うことができません。
私たちは、この「いのち」に、実際に入らなければなりません。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。 ヤコブ1:21-25
私が聖書のみことばを、すぐに忘れてしまうのは、「聞いても行なわない」からでした。
聖書のみことばは、「私たちの知的好奇心を楽しませるための知識」ではありませんでした。
これはすべて、私たちが聞いて行ない、地上に神の国を実現していくための私たちの使命でした。
私たちが、素直にみことばを実践するならば、私たちはみことばを「ありがたい教え」としてではなく、具体的な事実として心に刻みつけることができるようになり、さらにはっきりと、明らかに、鮮明に生けるまことの神を見ることができるでしょう。
そして、暗やみの中に座っている人々は、私たちの生き方を通して、キリストを仰ぎ見ることができるようになるでしょう。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 Ⅱ歴代誌16:9
私は、みことばを実践するために、「キリストとまったく一つ」になりたいと願いました。
私が「キリストとまったく一つ」になっていなければ、私には何の力もありません。
私が「キリストとまったく一つ」でないなら、飢え渇いた人々は、キリストを見ることも、知ることもできません。
私が「キリストとまったく一つ」でないなら、私には存在意義などないのです。
私はこのみことばに立って、自分の力によってではなく、「キリストとまったく一つ」にされることによって、ただ唯一の希望である神の御力によって、みことばの実践に歩もうと思い、神にそう願いました。
私を寛容に赦してくださった、祈りの人、愛する友ヨナタンにも、その祈りをお願いしました。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 Ⅰヨハネ5:14
ところが、一歩、歩み始めると、私はすぐさま倒されました。
そして、私は改めて、悟りました。
この道は、「ああ、これで私は、キリストとまったく一つになれた!」、「やっと私は完成した!」などということを経験する道ではなかったのです。
私の心のうちに隠されていたものは、どこまでも、「私の肉」でした。「私が」、「私は」、「私には」…、どこまで行っても、「私の完成」を目指そうとしている肉の性質を思い知らされて、とことん悔い改めさせられました。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 ガラテヤ2:19-20
「私」が死んで、「キリスト」がよみがえられるのです。
「私の肉」が、まったく死に明け渡されない限り、「キリスト」は私のうちに、完全に働くことはできません。
そうです。「私」が終わり、「キリスト」が始まるのです。
「私」が退場し、「キリスト」が入場されるのです。
主よ。感謝します。
私はもはや、「自分自身に死のう」と努力する必要はありません。「私」はすでにキリストとともに十字架につけられ、死んでいました。
私は、みことばにしたがって、「私」が死んだことを素直に信じ、受け入れます。あなたのみことばは真実です。
どうぞ、あなたが、みことばどおりに、私のうちに豊かに生き、土の器にすぎない私とまったく一つになってくださり、ご自身の御力を、余すところなく、思う存分に発揮してくださいますように。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 ヨハネ15:7-12